2016年12月31日土曜日

ナショナル・ポートレート美術館 (チューダー王朝時代)

ヘンリー7世Henry VII) 1457-1509
ボズワースの戦いでリチャード3世を破って王位を勝ち取り、エドワード4世の娘のエリザベス・オブ・ヨークと結婚して王位を固め、薔薇戦争の混乱を解決しました。官僚機構を中央集権的な強力なものにし、政治を安定させ、スペインと友好を結び、フランスとの平和を維持し、貿易を促進し、、優れた統治を行いました。グリニッジ宮殿やリッチモンド宮殿を建て、ウエストミンスター寺院にチャペルを造りました。

ヘンリー8世Henry VIII) 1491-1547
ヘンリー7世の次男。6度の結婚に加えて、ローマ・カトリック教会からのイングランド国教会を分離し、ローマと対立し、修道院を解散し、自ら国教会の首長となりました。

キャサリン・オブ・アラゴンCatherine of Aragon) 1487-1536
アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャのイザベラ女王の4女。ヘンリー7世の長男のアーサー皇太子に嫁ぎましたが花婿は急逝しました。1509年、ヘンリー7世の死により王位を継承したヘンリー8世と再婚しました。ヘンリー8世とキャサリンとは最初は仲睦まじかったのですが、度重なる流産と死産に見舞われ、ヘンリーの愛情は徐々に冷えてしまう。ヘンリーは後継ぎが欲しいという気持ちが高まり、年をとって次第に出産が難しくなるキャサリンとは離婚して、別の女性を王妃にして産ませようと考えるようになった。男の跡継ぎが一番大事にされていた時代だったこともあるが、ヘンリーはキャサリンの度重なる流産と死産は亡き兄アーサーの怨念ではないか、兄の妻と結婚したものは呪われる、という聖書の教え通り、この結婚は呪われているとすら考えるようになっていました。1533年、キャサリンはヘンリー8世から結婚の無効を突きつけられ、王妃の座を追われた。庶子扱いとなった一人娘メアリーとの面会も文通も禁じられました。3年後、病死。ヘンリーとアン・ブーリンによる毒殺ではないかという噂が広まりました。

アン・ブーリンAnne Boleyn) 1507‐1536
キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となったアンはヘンリー8世の愛人になるよう求められたが、アンは強硬に王妃の座を要求したため、ヘンリーはローマ教皇にキャサリンとの「離婚許可」を求めることになりました。しかし、キャサリンの甥に当たるカール5世(スペイン王カルロス1世)も反対しており、教皇庁は許可を出しませんでした。ヘンリー8世はこれに激怒して、教皇庁との断絶を決意。イングランド国内において国王こそ宗教的にも政治的にも最高指導者であることを宣言し、アンを正式な王妃に迎えました。1533年9月アンは王女エリザベスを出産しました。アンは贅沢を好み、宮殿の改装や家具・衣装・宝石等に浪費した。一方、ヘンリー8世はアンの侍女のジェーンへと心移りし、次第にアンへの愛情は薄れていきます。アンは男児を流産すると、男子を産まず、流産を繰り返すアンから王の寵愛が離れました。結婚から2年後、アンは不義密通を行ったとして反逆罪に問われ、ロンドン塔で処刑されました。

トマス・モアThomas More)1478-1535
国王とキャサリン王妃の離婚に反対した大法官も処刑されました。

トマス・クランマー(Thomas Cranmer )1489-1556
1533年カンタベリー大司教に就任します。キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚を承認した。
次のエドワード6世の治世が始まると、クランマーは更に積極的に宗教改革を推し進めた。
ところがメアリ1世が即位すると、女王はイングランドをカトリックの国家にするためプロテスタントを迫害し、クランマーは火あぶり刑にされました。


エドワード6世Edward VI) 1537-1553 
父の死に伴い9歳で即位しました。伯父のエドワード・シーモアが摂政となってイングランドの事実上の支配者となり、反逆罪で処刑されると、ノーサンバランド公が実権を握り、王に政治教育を行いました。しかしエドワードは病弱で、15歳で亡くなりました。

キャサリン・パーKatharine / Catharine Parr)1512-1548
ジェーン・シーモアの兄トーマスと交際していましたが、宮廷に出入りするうちにヘンリー8世に見初められ、結局1543年に31歳で王と結婚しました。王后となったキャサリンは、当時庶子の身分に落とされていたメアリーとエリザベスの姉妹を宮廷に呼び戻して王位継承権保持者の地位に戻すことを王に嘆願しました。まだ幼いエドワード王子とエリザベスの養育を任されたため、彼らへの教育環境を整えました。
肥満だったうえ、怪我が元でできた脚の腫れ物とひどい頭痛に苦しんで、苛立ち、激怒しやすくなった王をキャサリンが看病しました。1547年、ヘンリー8世は亡くなると、元恋人トーマスと結婚しました。

メアリー1世Mary I of England) 1516-1558
ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの娘として生まれました。37歳で即位。従兄弟のカール5世の息子のスペインのフィリペ皇太子と結婚しましたが、フィリペは挙式後13ヶ月ほどイギリスに滞在し、ベルギーに帰ってしまいました。この時代メアリの名のもと300人近くプロテスタントが火あぶりになりました。メアリ女王はブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)と呼ばれました。1558年メアリは病死します。

エリザベス1世(Elizabeth I) 1533-1603
ヘンリー8世とアン=ブーリンの娘。母は彼女を生んだ後、姦通罪で処刑され庶子として育ちます。姉の死によって25歳で戴冠。宗教問題の解決を進め、国民的な統合を再現して、絶対王政を確立しました。生涯結婚することなく、「私は国家と結婚した」と言って政治に一生を捧げました。

メアリー・ステュアートMary Stuart) 1542-1587
スコットランド王のジェームズ5世とフランス貴族ギーズ公家出身のメアリ・オブ・ギーズの長女。
生後7日で、スコットランド女王メアリー1世として即位(在位1542-1567)フランスで育ち、フランソワ2世と結婚するが夫が病死したので、スコットランドに戻ってきました。2番目の夫の殺人疑惑で廃位ののち国を追われ、イギリスに亡命しました。カトリックのメアリを担ぎ上げようとする陰謀に加担したので、1586年にエリザベスはメアリの処刑を決めました。

エリザベス1世

エリザベス1世

 ロバート・ダッドリー(Robert Dudley) 1533-1588
1533年生まれ。1558年にエリザベスが即位すると、女王の寵愛を受け、やがて女王と愛人関係となり、結婚の噂も立ちます。1564年にはレスター伯爵に叙されるとともにケニルワース城を与えられました。1588年の夏にはスペイン無敵艦隊来襲に備えましたが、海戦直後に体調を悪化させ、同年9月に死去しました。女王は崩御の時まで彼から贈られた最後の手紙を宝物にしていました。女王の寵愛を笠に着て横柄な態度が多かったため女王側近からは嫌われていました。

ウォルター・ローリーSir Walter Raleigh) 1552-1618 
イングランドによる北米植民地の建設は1587年に始まります。ウォルター・ローリー卿は1587年、ロアノーク島に入植地を築き、この地域を女王にちなんでヴァージニアと命名しました。ローリーはアイルランドに初めてじゃがいもを植えたり、英国にタバコをを伝えたと言われています。エリザベス1世が死去すると、ロンドン塔に1616年まで監禁されますが、ギリシャとローマの古代史に関する本「世界の歴史」 を著しました。ロンドン塔から解放されると、南米に黄金郷を探索しに行きましたが、探検の途中、ローリーの部下達が略奪を行います。イングランドに帰還した後、スペイン大使がジェームズ1世にローリーの死刑判決を実行するよう求め、ローリーは1618年ホワイトホール宮殿前で処刑されました。

サー・フランシス・ドレーク(Sir Francis Drake)1543-1598
1577年、ゴールデン・ハインド号で大西洋からマゼラン海峡を経て太平洋に進出し、チリ・ペルー沿岸のスペイン植民地や船を襲って、多大な財宝を奪う。その後、太平洋を横断してさらにインド洋から喜望峰を回って帰国し、マゼランに続く史上二番目の世界一周を達成しました。

1588年のアルマダの海戦ではイギリス艦隊副司令官に叙任され、イングランド艦隊の実質的な指揮をとり、火のついた船を敵艦隊に送り込むという海賊らしい戦法により、スペイン艦隊を壊滅させます。55歳で亡くなった。

フェリペ2世Felipe II)1527-1598
1527年神聖ローマ皇帝カール5世、スペイン王カルロス1世とポルトガル王女イザベルとの間に生まれました。フィリピンは1542年スペイン人のコンキスタドールによってフィリペの名が付けられました。1554年イギリス女王メアリ1世と結婚しますが、1555年フィリペはブリュッセルに出発します。ネーデルランドの統治権、翌年にはスペイン王の称号を受けました。
独身のエリザベスにはフランスやスペインを含む各国からの縁談が舞い込んで来ましたが、結婚の交渉が続けられている間は、いずれもイングランドを敵とは出来ないことを知っていたので、それを外交に利用しました。
スペインは、新大陸の冨を一手に握っていました。イングランドはドレイクなどの私掠艦隊を用いてスペインの制海権を脅かした。1588年、スペインは当時最強を誇った無敵艦隊をイングランドに差し向けますが、イングランド艦隊は無敵艦隊を壊滅させ、スペインを大国としての立場から退場することになります。

0 件のコメント: