ストーン・ヘンジは世界遺産の巨石遺跡です。
三段階に分けて建設されました。
第一段階は紀元前3000年頃で、円形の土手と堀が造られ、円に沿ってオーブリー・ホールと呼ばれる直径1メートルの穴が連なって掘られています。円内への入口は夏至の日の出の方向と一致します。部族の何らかの儀式用の集合場所として使用されたと思われます。
第二段階は紀元前2600年頃で、中央に木造の建物が造られましたが、現在は残っていません。
第三段階は紀元前2200年から1600年にかけて、中央ヨーロッパからやって来たビーカー族によって造られた石のモニュメントで、1000年の間に何度か並べ替えられました。
私たちがストーンヘンジと聞いて思い描く巨石遺跡は第三段階で築かれたものです。
石は2種類あって、大きな方はサーセン・ストーンと呼ばれ、平均25トン、最大45トンの石が56個、30キロ離れたマルボロ・ダウンズから陸路で運ばれ、馬蹄型とそれをとりまく円形状に並べられました。
小さな方はブルー・ストーンと呼ばれ、最高4トンが60個、385キロ離れたウエールズ南西部から海岸づたい→川→最後の9キロのみ陸路で運ばれ、二重の三日月形に配置されました。
巨大なサーセン・ストーンをどうやって組み立てたが謎ですが、それだけの労力を集められる統治力を持つ人が存在していたということです。
2015年4月29日水曜日
バース
バースは 風呂を意味するゲルマン語。紀元前からここに住んでいたケルト人は温泉の自然療法の力を崇拝し、この地に泉を司るケルトの女神スリスの神殿を建てました。ライ病のため宮廷を追われたリア王の父ブラダッドはある日この地で暖かい泥の沼に浸かると、ライ病はきれいさっぱり治ってしまったという伝説もあります。
西暦60年頃にブリテン島に侵攻してきた古代ローマ人は、この町に温泉が湧きでているのをみつけ神殿や浴場を建設ました。町はアクア・スリス(癒しの水)と名付けられ、ローマの神ミネルヴァとケルトの神スリスの両方を祀る神殿が建てられました。
ローマン・バースには摂氏46.5度のお湯が毎日25万ガロン(1ガロン=4.5ℓ)湧き出しています。 火山活動には関係なく、約1万年前に降った雨が地下3000メートルで温められてお湯になり、それが湧いて来たものです。
ローマ帝国が崩壊すると浴場は荒廃し、サクソン時代になると文化の中心は教会と修道院の建設に移りました。
中世には大聖堂と羊毛産業で栄えたバースでは、ローマ時代の建築物を建材として利用したため、ローマ時代の建物はほとんど失われてしまいました。
ジョージ王朝時代には富裕階級が社交と療養に集まるリゾートとして繁栄しました。
1727年、大工の弟子として修業を積んでいたジョン・ウッド(父)は古典様式に基づいたローマのような都市を建設したいと思い、故郷バースに戻ってきました。同じ頃、企業家ラルフ・アレンがバース・ストーンの採掘場を買い取り、バース・ストーンを使って新たな町を作ろうと考え、アレンがウッドの都市計画を支持、バースの大都市計画が進められることになりました。
サーカスが着手されようとした1754年にウッド(父)が亡くなり、計画はそのまま同名の子に引き継がれました。
ウッド(子)はローマのコロッセウムに影響を受け、またサークルの直径をストーンヘンジと同じ直径に立てたと言われています。
ウッド(子)はサーカスを完成させると、半月型のロイヤル・クレセントに着工。30件の邸宅からなるロイヤル・クレセントは貴族たちの休暇中の仮住まいとして使われました。
当時、保養のためにバースに滞在した人の一日は、
まず朝早くパンプルームで温泉のお湯をグラス3杯飲み、
昼には教会で祈りを挙げ、午後3時に正餐を取り、昼寝、
夕方からはカード・ゲームやダンスなど社交を楽しみながら過ごしました。
1784年プリンス・リージェントがブライトンに離宮を建ててからは、社交の中心はブライトンに移り、バースの華々しい時代は終わりを告げることになります。
1987年にユネスコ世界文化遺産都市に指定。
ローマン・バース博物館
1880年にローマ時代の遺跡が発見・発掘され、古代ローマ人が建てたサウナやプールを持った大浴場があったことが分かりました。現在はグレート・バースという緑色のお湯が入ったプールと、神殿に使われた石材や女神の胸像、祭壇に捧げられたコインや宝飾品などが見られます。日本語のオーディオ・ガイドがあります。
パンプ・ルーム
1700年代初頭に開設されたもので、入浴後に鉱水を飲んだり、食事をしたりする社交場でした。今でも鉱水を飲むことができます。
サリーランズ
1680年頃、サリー・ランという人がパン屋を創設。ブリオッシュが評判になり、上流階級では朝食にブリオッシュを食べるのが流行しました。建物は1482年に建てられたもので、バースで最も古い建物です。
バース・アビー
1499年、オリバー・キング司教は教会を再建。西窓は旧約聖書のエピソードが描かれた大きな窓で、天井も見事です。
ジェーン・オースチン・センター
ファッション・ミュージアム
坂が多いバースでは、
普通の家が面白い。
街を散策してみました。
細い路地を入った所に
寿司屋を発見。
中心部の繁華街。
観光バスもあります。
石畳の道は歩きにくい。
坂を下り切ると
集合場所であるバース・アビーに戻ります。
西暦60年頃にブリテン島に侵攻してきた古代ローマ人は、この町に温泉が湧きでているのをみつけ神殿や浴場を建設ました。町はアクア・スリス(癒しの水)と名付けられ、ローマの神ミネルヴァとケルトの神スリスの両方を祀る神殿が建てられました。
ローマン・バースには摂氏46.5度のお湯が毎日25万ガロン(1ガロン=4.5ℓ)湧き出しています。 火山活動には関係なく、約1万年前に降った雨が地下3000メートルで温められてお湯になり、それが湧いて来たものです。
ローマ帝国が崩壊すると浴場は荒廃し、サクソン時代になると文化の中心は教会と修道院の建設に移りました。
中世には大聖堂と羊毛産業で栄えたバースでは、ローマ時代の建築物を建材として利用したため、ローマ時代の建物はほとんど失われてしまいました。
ジョージ王朝時代には富裕階級が社交と療養に集まるリゾートとして繁栄しました。
1727年、大工の弟子として修業を積んでいたジョン・ウッド(父)は古典様式に基づいたローマのような都市を建設したいと思い、故郷バースに戻ってきました。同じ頃、企業家ラルフ・アレンがバース・ストーンの採掘場を買い取り、バース・ストーンを使って新たな町を作ろうと考え、アレンがウッドの都市計画を支持、バースの大都市計画が進められることになりました。
サーカスが着手されようとした1754年にウッド(父)が亡くなり、計画はそのまま同名の子に引き継がれました。
ウッド(子)はローマのコロッセウムに影響を受け、またサークルの直径をストーンヘンジと同じ直径に立てたと言われています。
ウッド(子)はサーカスを完成させると、半月型のロイヤル・クレセントに着工。30件の邸宅からなるロイヤル・クレセントは貴族たちの休暇中の仮住まいとして使われました。
当時、保養のためにバースに滞在した人の一日は、
まず朝早くパンプルームで温泉のお湯をグラス3杯飲み、
昼には教会で祈りを挙げ、午後3時に正餐を取り、昼寝、
夕方からはカード・ゲームやダンスなど社交を楽しみながら過ごしました。
1784年プリンス・リージェントがブライトンに離宮を建ててからは、社交の中心はブライトンに移り、バースの華々しい時代は終わりを告げることになります。
1987年にユネスコ世界文化遺産都市に指定。
ローマン・バース博物館
1880年にローマ時代の遺跡が発見・発掘され、古代ローマ人が建てたサウナやプールを持った大浴場があったことが分かりました。現在はグレート・バースという緑色のお湯が入ったプールと、神殿に使われた石材や女神の胸像、祭壇に捧げられたコインや宝飾品などが見られます。日本語のオーディオ・ガイドがあります。
パンプ・ルーム
1700年代初頭に開設されたもので、入浴後に鉱水を飲んだり、食事をしたりする社交場でした。今でも鉱水を飲むことができます。
サリーランズ
1680年頃、サリー・ランという人がパン屋を創設。ブリオッシュが評判になり、上流階級では朝食にブリオッシュを食べるのが流行しました。建物は1482年に建てられたもので、バースで最も古い建物です。
バース・アビー
1499年、オリバー・キング司教は教会を再建。西窓は旧約聖書のエピソードが描かれた大きな窓で、天井も見事です。
ジェーン・オースチン・センター
ファッション・ミュージアム
坂が多いバースでは、
普通の家が面白い。
街を散策してみました。
細い路地を入った所に
寿司屋を発見。
中心部の繁華街。
観光バスもあります。
石畳の道は歩きにくい。
坂を下り切ると
集合場所であるバース・アビーに戻ります。
2015年4月28日火曜日
レイコック
村全体がナショナル・トラストの保護地となっているレイコック村に行ってきました。
1232年に建てられたレイコック・アビーは、19世紀に近代写真技術の生みの親となったウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットが長く住居としていたと ころで、フォックス・タルボットの偉業を称える写真博物館があります。