2007年4月25日水曜日

ナポレオン3世と皇太子ルイ

ウインザー城のセント・ジョージ・チャペルの中に、ナポレオン3世とユージニ皇后との間に生まれた皇太子ルイの記念碑があります。どうしてフランス革命後のフランス皇太子の記念碑が、英国の城の中にあるのか、不思議に思って調べてみました。

ナポレオン3世は、ナポレオンの1世の弟ルイの子(つまり甥ですね)で、1848年2月革命で憲法制定議会議員になり、その後大統領に就任、1852年に国民投票で皇帝になりました。

写真は、ルーヴル美術館にある「ナポレオン3世のアパルトマン」です。1856年から61年にかけて、ルーヴル宮とチュイルリー宮をつなぐために造られた豪華絢爛な部屋です。実際にはナポレオン3世の住居としてではなく、第2帝政時代の国務大臣のレセプション室に用いられたそうです。革命の時代に生きたのなら、もっと清貧に生きればいいのにと思うのは、私だけでしょうか?第2帝政没落後から、1989年までは、財務省として使われていたそうです。公務員が、こんな豪華な部屋を使ってたなんて、まったく、お役人も何を考えているんだか・・・。結局、今はルーヴル美術館の一部として、一般公開されています。

ナポレオン3世は、国民の人気を維持するため、クリミア戦争やインドシナ出兵を行いましたが、1870年のプロイセンとの戦争で、捕虜になってしまい、その間に議会は帝政の廃止を宣言、帝政は崩壊します。皇妃ユージニはイギリスに脱出。別ルートでイギリスに着いた息子のルイと、ロンドン郊外の屋敷に落ち着きます。半年後に釈放されたナポレオン3世もイギリスに亡命しますが、2年後に病死してしまいます。

で、息子のルイですが、フランスにもナポレオン帝政の復活を望む人々がまだかなりいて、後継者である皇太子ルイに対する期待はかなり大きかったようです。ヴィクトリア女王の宮廷にも招かれていたそうです(ナポレオンって王室の敵なんじゃ・・・?)ので、世渡りも上手だったのかもしれません。しかし、イギリスの士官学校で教育を受けたルイは、将校仲間とともに、南アフリカのズールー戦争に従軍することになり、偵察中に奇襲されて、23歳の若さで戦死してしまいました。彼は、戦場で戦死した、ボナパルト家の唯一の人間となりました。彼の遺体はイギリスに移送され、葬儀にはヴィクトリア女王も参列しています。

ウインザー城のセント・ジョージ・チャペルに行くときは、若く勇敢だった、ルイのことも思い出してあげてくださいませね。

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