2016年8月31日水曜日

古代ローマ皇帝の彫刻


伝説によると、古代ローマは軍神マルスの2人の息子ロムルスとレムスによって、紀元前753年に建国されました。紀元前509年に王を追い出し、元老院から毎年選ばれる2人の執政官が納める共和国となりました。隣国を制圧するとともに、ギリシャ都市から文明 を学び、大国に成長していきました。紀元前146年、貿易大国カルタゴと1世紀に渡る戦いに勝利し、ローマが地中海における最強国となりました。戦いに勝 利を収めた将軍たちは巨万の富をローマに持ち帰りますが、国内における勢力争いも激しく、内戦が繰り返されました。

ユリウス・カサエル(ジュリアス・シーザー)は、紀元前60年スペインを平定、紀元前58年から50年までガリアに赴任して平定し、領土、名声、莫大な財産を手に入れました。ライバルたちをことごとく打ち破ったカサエルは、大国となったローマを共和政のまま統治するのは難しく、権力を集中させなければならないと考え、紀元前47年終身独裁官という役職をつくり、すべての権力を手に入れようとしました。紀元前44年、元老院議員たちはカサエルを暗殺します。

初代皇帝アウグストゥス(紀元前27年~14年)
オクタヴィアヌスは紀元前63年に生まれ、シーザーの甥にあたり、養子になっています。シーザーが暗殺さえた時、彼はアントニウスとレピドゥスとともに三頭政治を敷き、やがてアントニウス・クレオパトラ連合軍にアクティウム沖の戦いで破り、最高権力を手にします。 紀元前27年、元老院はアウグストゥス(崇高なる者)という尊称を与え、オクタヴィアヌスは事実上の皇帝になりました。
皇帝になったばかりのころのアウグストゥスのブロンズ像はクシュ(スーダン)で発見されました。実物よりも大きく、理想の体型に基づいた完璧なプロポーションで作られています。

初代皇帝アウグストゥス(紀元前27年~14年)
アウグストゥスと右腕のアグリッパは国税調査を行ってローマ帝国の実情を把握し、本来は国家がすべき上下水道の整備や公共浴場の建設などを私財と投じて行い、使用料を市民から徴収するということもしませんでした。この大理石の像はアウグストゥスが76歳で亡くなった後に造られたものです。

ローマの領土は、西はイベリア半島、北はドナウ川、東はメソポタミアまで領土を拡大し、ほとんどの地域を平定することに成功しました。ローマは陸路や海路を利用してインドとも貿易を行い、絹や胡椒などを輸入していました。ローマの領土を拡大するためには、強大な軍事力が必要でしたが、軍隊を維持していくのは財政上困難でしたので、植民地に入植させました。
 
アウグストゥスの妻リヴィア。
アウグストゥスの3番目の妻リヴィアと53年の長きにわたって連れそりましたが、子供には恵まれませんでした。


初代皇帝アウグストゥスの妻 (西暦30~50年)
西暦29年にリヴィアが亡くなってから女神として作られた像。
リヴィアには2人の連れ子がおり、アウグ ストゥスは彼らを実子同然に育てました。皇帝候補は弟のドルーススでしたが落馬事故で死亡。兄のティベリウスが次期皇帝になります。

第2代皇帝ティベリウス(14~37年)。
リウィアの連れ子。ギリシャ語・天文学の知識もあり、20歳で将軍になり、皇位に就いた時ティベリウスは55歳でした。財政再建のため、属州から微税強化、有罪判決を受けた富裕者からの財産没収、家具調度品への間接税の導入。しかし晩年は恐怖政治が実施され、77歳で病死した時は市民が喜びました。

第3代皇帝カリグラ(37~41年)
ティベリウスは後継者にゲルマニクスの末子カリグラ(軍靴)を指名しました。24歳で帝位に付き、即位から6か月後大病を患い、回復した時に高熱によって異常をきたらしました。カリグラは自らを祀る神殿を建て黄金像を並べたり、義弟や祖母を殺しました。29歳で親衛隊に暗殺されました。

第4代皇帝クラウディウス(41~54年)。
カリグラの叔父のクラウディウスだけは51歳で皇帝になりました。ブリタニア地方の領土拡大、財政の健全化、司法改革などを達成しました。姪のアグリッピナと結婚、彼女の息子のネロを養子にしました。実子ブリタン二クスを後継者にしようと考え、64歳の時に妻に毒殺されます。

第5代皇帝ネロ(54~68年)
17歳で皇帝の座に就くと、毒薬調合師を宮廷によびよせブリタンニクスの食事にもって殺し、母のアグリッピナ、妻のオクタヴィアを殺しました。オリンピアの競技場で戦車競技に出て完走できなかったのに優勝し、ローマで凱旋式をしました。西暦64年ローマ市内で大火があり、焼失した場所を利用して黄金宮殿を建設したので、火事は皇帝の仕業だという噂が流れ、その噂のスケープゴートにキリスト教徒を虐殺しました。パウロとペテロもこの時に処刑されます。属州を統治していた将軍たちが反旗を翻しローマに攻めてきたため、ネロは自殺します。

第6代皇帝ガルバ(68~69年)
高潔で有能なヒスパニア総督でしたが、緊縮財政の実施などで不満を招き7カ月で暗殺。

第7代皇帝オトー(69~69年)
23人の親衛隊員を買収してガルバを暗殺して皇帝に就任したが、戦いに大敗して自殺。3か月の治世でした。

第8代皇帝ウィテリウス(69~69年)
戦ってゲルマニア総督から皇帝になりましたが、ドナウのウェスパシアヌス将軍に負けて、捕まって処刑されました。8か月の統治でした。

第9代皇帝ウェスパシアヌス(69~79年)。
60歳という高齢で、元老院と軍隊に支持されて皇帝になりました。ユダヤ戦争。69歳の時、病死。

 西暦75年、ネロが作った黄金宮殿の人工池を利用してコロッセウムの建設を開始しました(完成は80年、直径188m、高さ48m)。完成後コロッセウムでは、残忍な競技が盛んに行われ、市民はそれを無料で楽しむことができました。

第10代皇帝 ティトゥス(79~81年)。
前皇帝の長男。西暦79年ヴェスヴィオ火山が大噴火してポンペイが消滅。80年にはイタリア全土に謎の疫病が蔓延、病人を看護したため皇帝自身も疫病に冒され42歳の若さで亡くなりました。


第11代皇帝ドミティア(81~96年)
前皇帝の弟。はじめは公正な統治を行いましたが、元老院議員や騎士たちを無実の罪で処刑・追放したり、キリスト教徒をたくさん殺したりして、最後は側近に暗殺されました。

第12代皇帝ネルヴァ(96~98年)
元老院議員の中から皇帝に推挙された法律家。在位1年4カ月でしたが、恐怖政治の追放、財政の健全化、水道の整備、貧民への土地割り振りなどをおこないました。

第13代皇帝トライヤヌス(98~117年)
ヒスパニア生まれで、初めての属州出身の皇帝。 ゲルマニア総督。前皇帝ネルヴァによって後継者に指名されました。トラヤヌス広場やヴェローナの円形劇場の建設、ローマに上水道と四大街道を整備しました。この時代、ローマ帝国の領土は北はブリテン島南部、南はエジプト、西はイベリア半島、東はメソポタミアに達し、その歴史の中で最大になりました。


トラヤヌスは64歳で遠征先からローマに帰る途中に病気で亡くなると、トラヤヌスの記念柱の下に葬られ、円柱の周囲にはダキア遠征の模様が克明に刻まれました。

第14代皇帝ハドリアヌス(117~138年)
ハドリアヌスはトラヤヌスの従兄弟の子供で10歳の時に父が亡くなったため、ローマに来てさまざまな教育を受けました。政治的才能があったようでギリシャ留学をした後、軍事・行政の要職を歴任し、40歳で帝位に就きます。


121年から5年間属州の視察に出かけ、ガリア、ゲルマニアを回り、ブリテン島に渡り、ケルト人が北から侵入しないようにハドリアヌスの壁を造るよう命じました。その後、スペイン、シリア、トルコを回り、ギリシャではゼウス・オリンポス神殿やハドリアヌス門を造らせました。126年に皇帝即位10周年記念祭に出るためにローマに戻りますが、すぐにまた属州の視察に出かけました。132年はエルサレムの反乱を鎮圧し、ユダヤ人を追放しました(流浪生活の始まり)。西暦138年、62歳で亡くなりました。

ハドリアヌスの妻サヴィーナ。トラヤヌスの妹の孫娘。

ヴィラ・ハドリアヌスにあった彫刻
西暦130年ごろ、ローマ近郊のティボリに建設されたヴィラ・ハドリアヌスには、広大な敷地に豪華な宮殿が建てられていました。

 第15代皇帝アントニウス・ピウス(138-161)
 ピウスは高潔な態度を政治を行い、ローマからほとんど出ることがありませんでしたが、奨学金制度を設立し、貧しい家庭の子を支援し、法典の整備を行いました。


同じく第16代 皇帝ルキウス・ウェルス(161~169)
ハドリアヌスがピウスの前に後継者に指名したルキウス・アエリウス(テルマエ・ロマエで北村一輝さんがやっていた役)の息子ですが、女遊びばかりして政治には一切興味を示しませんでした。162年~166年、反乱を起こしたパルティア王国(イラン)を撃退しローマに凱旋しました。ゲルマン人がドナウ川を越えて侵入したのでゲルマニアへ遠征中、体調不良を訴え、ローマへ帰還する途中の北イタリアで亡くなります。享年38歳。

第16代皇帝マルクス・アウレリウス(161~180)
歴史上初めて 2人の皇帝による共同統治が行われました。スペイン出身。幼いとき両親を亡くしましたが、6歳で騎士、8歳で神官に取り立てられ、17歳で元老院議員、 18歳で福皇帝、19歳でコンスル、31歳で皇帝に就任。年長であるマルクスが政治の実権を握ることになります。

マルクス・アウレリウスの妻ファウスティナ(前皇帝ピウスの娘)
夫が遠征で留守がちなのをいいことに不貞を楽しんでいたと言われています。マルクスとの間に14人の子供がいましたが、成長したのは6人。男子はコモドゥスだけでした。


第17代皇帝コンモドゥス(180~192年)
前帝マルクスの10番目の子供で、父の死に伴い18歳で皇帝に即位。アメリカ映画「グラディエーター」のモデル。姉による暗殺未遂事件から、暴君になる。ヘラクレスに扮し、ライオン、クマ、ダチョウを闘技場に放って矢で仕留めたり、12000人もの剣闘士を殺害したりしました。愛妾と側近により暗殺されます。享年31歳。

第18代皇帝ベルティナクス 3カ月で暗殺

第19代皇帝ユリアヌス、2カ月で暗殺

第20代皇帝 セプティミウス・セウェルス(193~211年)
初のアフリカ出身の皇帝です。元老院をないがしろにしましたが、自分の支持基盤であった多賀兵士たちには敬意を払い、要職につけたり、兵士の結婚を許したり、給料をあげたり、退役後の身分を保証しました。西暦208年セウェルスはブリタニア全域を支配すべくド-バー海峡を渡りましたが、目的を果たせないまま211年ヨークで亡くなります。

第21代皇帝カラカラ(211~217年)
211年に皇帝に就いたカラカラが最初に行ったことは、共同統治者となた弟ゲタの殺害でした。また、妻のフルウィアも気に入らずに処刑しました。業績としては、ローマのカラカラ浴場(217年。浴室の大きさは直径34m、一度に1600人が入浴できた)を建設しました。ローマ帝国内のすべての自由民に市民権を与えました。カラカラは自分がアレクサンドロス大王の生まれ変わりと自称し、ゲルマニア戦線で勝利し、パルティアとの戦いに勝利し、領土を広げましたが、トルコで親衛隊員に暗殺されてしまいます。

その後20人の短命な軍人皇帝が続きます。

ディオクレティアヌス(284~305年)
解放奴隷の子。ローマ帝国の四分割統治。

コンスタンティヌス (312~337年)
ローマ帝国の再統一 。凱旋門。313年、キリスト教を公認します。330年、新都コンスタンティノポリス建設。

テオドシウス(379~395年)
 ローマ帝国をコンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国と、ミラノを首都とする西ローマ帝国に分割し、2人の息子をそれぞれの皇帝に就けました。

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