2016年11月24日木曜日

大英博物館 メソポタミア文明 アッシリア


紀 元前9世紀にはアッシリア帝国が出現。中継貿易で築いた財をもとに巨大な軍事国家を樹立しました。紀元前8世紀の王、ティグリトピレセル3世は衰退した末 期王朝時代の古代エジプトをも制しました。侵略戦争で領土を広げたアッシリアでは、王の偉大さを誇示し脅威を与えるような作品が好まれました。神殿に刻ま れた戦いや仮の浮き彫りは紀元前9世紀のアシュールナシルパル2世の時代に始まり、王宮の入口を守ったラマッスなど、シュメールの粘土とは異なる石の文化 が築かれました。

ティグラト・ピレセル1世(紀元前1114~1076年)

北方のアルメニア地方まで遠征し、シリアの諸都市を陥れてアラム人を打ち破り、ヒッタイトの諸都市を次々と領土に加えていきました。しかし、彼の後継者の時代(100年間)にアラム人の東進が深刻な問題となり、攻勢を防ぎきれずに国土は縮小していきました。

ティグラトピレセル1世の8角柱碑文。アッシリアの王様は角柱碑文を公的建物の基礎に埋めました。この角柱は軍事遠征の報告を集成したものです。紀元前1114~1070年。


アシュールナシパル2世(紀元前883~859)

精力的で残忍な征服王は、反抗する敵に対しては徹底的な破壊で報いました。ヒッタイトやフェニキアの諸都市を征服して貢物を取り立て、その結果、アッシリア王室は莫大な財力を誇るようになり、首都をニネヴェからニムルドに移転して王宮を建造しました。

アシュールナシパルのラマッス

ティグリス河畔のニムルドに大宮殿が建設され、華麗な浮き彫りで飾られました。

ニムルドの王宮を守っていた人面獣身有翼像ラマッス。(紀元前9世紀)


シャルマネセル3世(紀元前858~824年)

父 の領土をさらに拡大することに専念しました。フェニキア都市と、イスラエル諸王のイエフはアッシリアに貢ぎものを贈りました。晩年長男が叛乱を起こし、帝 国全土に広がって王に対する大反乱となり、王はこれを鎮圧することができずに、ニムルドの王宮で寂しく亡くなります。次男が反乱を鎮圧させて即位します。

黒いオベリスクはシャルマネゼル3世に貢物を献上する場面が描かれています。(紀元前825年頃)
バラワート門(紀元前858~824年)
シャルマネセル3世は、イムグル・エンリルの宮殿に、壮大なレバノン杉の門扉を作りました。(実物大のレプリカが復元されています)。

扉には青銅の帯がついており、紀元前859年のフェニキュアへの遠征などが描かれていま
す。


ティグラト・ピラセル3世(紀元前745~727年)  

王 位簒奪者だったと考えられています。被征服民のアッシリア領内への強制移住をさせるようにして、アッシリア領内の荒地の開拓をさせ王室財政の安定に貢献さ せました。メソポタミア全土を手にしました。領土はペルシア湾からアルメニア、パレスティナからエジプト国境における広大なものとなります。


地中海まで進出したティグラト・ピレセル3世は、旧約聖書では「プル王」として出てきます。


シャルマネセル5世(紀元前726~722年)

父王が亡くなるとイスラエル王が態度を変えて反抗したため、イスラエルに攻め込み保守あおうを捕らえ、首都サマリアを包囲しますが、遠征途中のサマリアで戦死します。


サルゴン2世 (紀元前721~705年)

即 位後。ニネヴェから新都ドゥル・シャルキンに遷都。シリア・イスラエルの叛乱に対して鎮圧。イスラエル滅亡させます。広大な領土を維持するため、積極的に パレスティナ、アナトリア、フリュギアへの征服戦争を繰り返した。バビロンを陥落させる。イラン方面を進撃中に戦死した

ドゥル・シャルルキンのサルゴン2世の王宮の入口を守っていたラマッス。人頭牡牛は悪霊を払うと信じられていました。

悪霊を退けるとしてアッシリアの王宮入口に供えられ、隣には翼を持つ精霊が儀式用のモミの球果と手桶を持って立っています。紀元前721年、このラマッスを作らせたサルゴン2世は、北イスラエル王国を滅ぼしました。


センナケリブ (紀元前704~681年)

父 が建設していた新都ドゥル・シャルキンを捨て、ニネヴェを首都としました。バビロニアに従属していたユダヤ人に反乱が起こると、ヒゼキア王はエジプトとの 相互援助条約を持ってアッシリアに対抗しようとしました。ユダヤ人を危険視したセンナケリブは紀元前701年、エルサレムを包囲しましたが、エルサレムを 陥落させることなく撤退しています。紀元前689年にバビロニア遠征を行い、バビロンを陥落させました。この時センナケリブはバビロンの主神マルドゥーク 神像を持ち去り、バビロン氏の大部分を破壊した上に運河の流れを変えて洪水を起こしました。長男であったアッシュール・ナディン・シュミが装束不明になっ ていたため、センナケリブは末子のエサルハドンを後継者に指名しますが、他の息子たちは激しく反発し、紀元前681年に息子たちによって暗殺されました。

セ ンナケリブの遠征が記された六角柱碑文。王は領土の維持のために各地に遠征し、反乱を鎮圧しました。エルサレムのヒゼキヤ王に対する包囲攻撃とセンナケリ ブに支払った莫大な貢物の説明が詳細に書かれています。この事件は旧約聖書にも書かれています。紀元前704~681年。

センナケリブのパレスティナ遠征したことは浮彫にも描かれています。紀元前701年に、センナケリブはエルサレムを包囲しましたが、陥落させることなく撤退しています。

センナケリブが捕虜になった人たちを見ているところ。

船で川を渡る。

ニネヴェのセンナケリブの西南神殿の浮き彫りには、巨大な石塊を切り出し、大まかな形を彫刻したラマッスをを運ぶ場面が描かれています。(紀元前700年ごろ)。


エルサルハドン(紀元前680~669年)

父 王が兄弟に殺害されたので、あわてて首都を脱出し、小アジアに潜伏し、1年半かけて兄たちの反乱を鎮圧しました。シリアとイスラエルが繰り返し叛乱を起こ すのはエジプトが支援するからだと考え、紀元前671年にエジプトに侵攻します。しかしエジプトを支配するのは難しく、征伐に向かう途上で亡くなりまし た。長男をバビロニア王とし、嫡子ではないアッシュールバニパルを後継者と定めました。


アシュール・バニパル(紀元前668~627年)

父王が行っていたエジプト遠征を継続し、紀元前667年メンフィスを陥落させ、紀元前663年にはテーベを陥落させました。そして、紀元前662年エラムを属国としました。
兄シャマシュムウキンは紀元前652年に反旗を翻しバビロンに篭城。2年間持ちこたえましたが紀元前648年に陥落し炎上する宮殿の中で亡くなりました。
アシュールバニパルは歴代王の中で最も教養豊かな王といわれ、シュメール語、アッカド語の読み書きができました。王は文書収集に熱中し、アッシリア全土の初期を派遣し神話、医学、宗教、言語など学術書、商業証書や一般人の手紙などを集めさせました。
ニネヴェに大宮殿を建てました。

ニネヴェ宮殿のライオン狩りの浮彫。ライオン狩りはアッシリアの王たちにとって伝統的な習慣でした。紀元前668~627年ごろ。

アシュールバニパル図書館。

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