2016年1月24日日曜日

大英博物館で学ぶ日本の歴史 南北朝時代 (1333-1392)

1333年に鎌倉幕府が滅びた後、後醍醐天皇は天皇中心の公家政治に戻そうとしましたが、源氏の血を引く足利尊氏は天皇に反対で、京都に室町幕府をつくり、自分の家来を守護に任命して武家政治を始めました。天皇は尊氏と戦い、敗れて吉野〈奈良県)に移りましたので、尊氏は京都に光明天皇を立てました。吉野の朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝と呼び、南北朝の対立が始まりました。

全国の武士がこの乱に巻き込まれ、南北朝のどちらかに従って戦ったので戦乱は長引き、1392年、60年ぶりに、三代将軍足利義満が朝廷を一つにまとめました。義満は太政大臣になって公武の権力を合わせ持ち、日本を統一しました。義満が京都の室町に邸宅を造って、政治を行っていたので、のちにこの時代を室町時代と呼ぶようになりました。

ちょうど室町幕府が始まったころ、朝鮮半島でも高麗が滅び、李氏朝鮮時代が始まりますが、高麗が倒れた原因の一つに倭寇(日本の海賊)の被害が大きかったことがあげられています。また、新しく政府を開いた李成桂が倭寇を撃退して名声を得た武将だったことなどから、朝鮮の歴史に日本が〈悪者として)深くかかわっていることが分かります。

1395年義満は出家しましたが、政治の実権はそのまま握っていました。今度は京都北山に豪華な別荘を造りました。寝殿造書院造を合わせ周囲に金箔を張りめぐらしたので金閣と呼ばれました。

 瀬戸焼の茶碗(1400)

丹後焼の壺 (1300-1400)

は謡・舞・囃子からなる演劇で、寺社の保護から離れ、武士の援助のもとに発展します。観世座の観阿弥・世阿弥はたくさんの謡曲(脚本)を作りました。狂言は能の合間に演ぜられた喜劇で、能に比べたら通俗的で、庶民に愛好されました。
文学では南北朝60年間の動きを巧みに描いた軍記物の太平記が有名です。また、御伽草子はたくさんの人々に愛好された短編の読み物で、僧侶・武士・庶民や擬人化した動植物が主人公となり、庶民の夢を描きました。連歌(一首の和歌を二人で上の句と下の句を読みあう)は、南北朝時代から流行していましたが、室町時代に優れた歌集が現れます。

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