2016年1月28日木曜日

大英博物館で学ぶ日本の歴史 飛鳥時代 (552-710)


西暦592年に聖徳太子が推古天皇の摂政となったころから、中央集権の国家体制の確立が進みました。大王は天皇と呼ばれるようになります。聖徳太子は603年に冠位十二階を定め、氏族によらず本当に才能のある人を引きたてるようにしました。604年には十七条の憲法を定め、豪族たちに国家の官吏としての心構えや、仏教を敬うこと、天皇に服従することなどを説きました。

神楽面 (592,608)
6世紀末、飛鳥地方〈奈良県)に日本で最初の仏教を中心とした文化が生まれました。聖徳太子が建てた、法隆寺(世界最古の木造建築物)が代表的建築です。瓦葺の五重塔や、金銅で作られた仏像が、帰化人中心に造られました。




百済観音像は法隆寺の国宝のコピーで、1930年に大英博物館のために作られました。長身のすらりとした姿は、中国の南北朝時代の影響を受けたものと思われます。


607年には小野妹子遣隋使として送っていますが、中国の王朝に対して対等な立場を主張しています。聖徳太子が、小野妹子に持たせた国書の書き出しには「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす。つつがなきや。(太陽が昇る国の天子から、日が沈む国の天子に手紙を送ります。かわりありませんか。)」と書いてありました。



中国では、隋が滅び、唐の時代になりましたが、日本からは続いて使いを派遣していました。遣唐使と一緒にたくさんの留学生たちが進んだ学問や技術を学ぶために唐に渡りました。7世紀になると唐で勉強した留学生たちが帰ってきました。唐の進んだ政治や経済の仕組みを聞いて、日本も氏族同士が争っていてはいけないと考える人が出てきました。
西暦645年に蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子による大化の改新で、唐を模範とする中央集権政治への方向がはっきりと打ち出されました。中大兄皇子は内政に力をそそぎ、のちに天智天皇になります。

天智天皇が亡くなると、弟の大海人皇子が天武天皇になり、そのあと皇后が持統天皇として即位しました。地方には国司という役人を派遣して治めさせ、670年には戸籍がつくられました。701年には大宝律令という政治のよりどころになる法律も完成しました。天武・持統天皇の時代の文化を白鳳文化と言います。代表的建築物は、天武天皇の願いで建てられた薬師寺の三重塔です。インドや中国の様式を取り入れたスケールが大きなの壁画があらわれます。

宮廷では漢詩文をつくることが盛んに行われました。柿本人麻呂額田王らの歌人が長歌・短歌の作品を残しています。

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