2016年1月15日金曜日

大英博物館 日本陶磁器の展示

瀬戸

古墳時代から窯が開かれ、平安時代には全国に先駆けて施柚陶器が作られていました。鎌倉時代には中国の陶磁器を手本にした高級な施柚陶器が焼かれ、全盛期を迎えます。しかし、戦国時代になると、瀬戸周辺は戦場になり、陶工は美濃に逃げてしまいます。江戸時代になって尾張藩が陶工を呼び戻し、江戸時代後期には九州で磁器の製法や染付けを学んだ加藤民吉がその技術を広めました。明治から大正にかけては建築材料となる陶器タイルも盛んに生産されました。大量生産で値段を手ごろにし、日用の器として愛され、特徴がないのが特徴です。



瀬戸焼の天目茶碗 1400 

丹波焼き 1300-1400


千利休が茶の理想を追求し、実現する過程で誕生したのが、楽焼の茶碗です。モノトーンで絵付けもなく、ろくろを一切用いずヘラで削って形作っていく技法で、感触、形、色合いのすべてを茶人の好みに合わせ、精神性を追求しました。利休に指導されたという初代長次郎が豊臣秀吉から「楽」の印字を受け、やきものを楽焼、長次郎一族を楽家というようになりました。楽家はそれ以降400年間、京で最上の茶陶だけを焼き続けてきました。

 楽焼 十二代楽吉左衛門 (19-20世紀)

 楽焼 九代楽吉左衛門 (18-19世紀)

 京焼 十六代永楽善次郎 (1900)


薩摩

薩摩焼の歴史は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に、約80人の朝鮮の陶工を連れて帰ることから始まります。17世紀に白土を発見、「白もん」と呼ばれ、クリームがかった象牙色の地肌に色絵や金襴手を施した豪華なやきものが生まれます。細やかな透かし彫りの技術も見所で、花瓶、茶器、香炉などが作られました。江戸時代には薩摩藩主の御用品として焼かれ、一般の人の目に触れることはありませんでしたが、明治時代以降は海外に輸出され、高い評価を受けました。また、火山灰や軽石が混ざり、鉄分が多く含まれた土による「黒もん」は、酒器や壷や甕など、素朴で丈夫な日用の器として親しまれています。

 薩摩焼 (1729-30)

 薩摩焼 (1860-80)



伊万里

1610年ごろ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に連れてきた李朝の陶工によって、日本で初めての磁器生産が有田で始まりました。
江戸時代は有田で作られ、近くの伊万里港から出荷されたやきものを伊万里と呼んでいましたが、明治時代以降は有田町で製作されたものを有田焼、伊万里市で製作されたものを伊万里焼と呼びます。当初から鍋島藩では陶工に優遇措置をとるなどして磁器の生産に力を注いで来ました。

 1840-47
将軍や特定の大名への贈答品として藩窯で作られたものを「鍋島」といい、厳しい管理体制のもと、藩お抱えの絵師によって図案が考えられ、細部まで丁寧に描かれた格調高い製品ですが、一般には知られていませんでした。

ヨーロッパの王宮で見られる日本のやきものは、そのほとんどが貞享、元禄、享保(1690年から1730年)に有田で作られた古伊万里になります。

  柿右衛門様式 色絵象置物(1660-90)

柿右衛門様式の磁器 角瓶(1670-90)ティーポット(1670-1700)角鉢(1670-90)輸出用伊万里は、「柿右衛門」といい、1640年に酒井田柿右衛門が始めた窯でつくられた磁器で、1659年にオランダ東インド会社から大量の注文を受け、ヨーロッパ輸出時代が始まります。オランダ側の注文に応じるため、成分配合など試行錯誤が繰り返され、純白の薄くて軽くて強い磁器が誕生しました。

 乳白色の素地に鮮やかな色彩で描かれた絵は日本人の眼にはあまり触れることなく、ヨーロッパへと輸出されました。オランダ東インド会社との輸出貿易は1757年で終わります。

トルコでは純金と同じ価値で取引され、ザクセン侯国のアウグスト王は十数個の磁器と数十人の兵士とを交換したという伝説もあります。

1828年有田で大火事があり、多くの職人が有田の町を捨てて他の地域に移住してしまいます。それによって、各地で磁器の生産が始まることになりますが、一方有田では、優れた職人がいなくなり、品質は低下し、生産も落ち込みました。鍋島藩は復興に尽力をつくし、オランダとの貿易も再開しました。庶民生活に結びついた雑器の量産に方向転換すると同時に、輸出用製品には浮世絵や風俗絵を題材に扱ったものが作られました。

幕末・明治になってヨーロッパへの輸出が活発になってくると、元禄期に全盛を誇った金襴手(色絵の上から金彩を加える装飾)が再び脚光を浴びるようになり、元禄期のものと間違えられるくらい似ているものが作られました。


 色絵布袋置物 (1650-70)


有田焼 東南アジア輸出用 1670-90

 有田焼 オランダ輸出(1660-1680)


有田焼 ヨーロッパ向け

有田焼 VOC(オランダ東インド会社)向けボトル 1670-1690

有田焼 VOC(オランダ東インド会社)向け桃皿 1670-1710

有田焼 ヨーロッパ向け 1690-1710

有田焼 ヨーロッパ向け 1690-1720

九谷

17世紀に焼かれた古い九谷焼は、実は九州の有田で焼かれていました。
加賀(石川県)の九谷焼は再興九谷と呼ばれ、1823年京焼の名工を招き、加賀藩の保護により、金沢市の春日山に窯を築かせたものです。紫、黄、緑、赤、青の五色を「九谷五彩」といい、華やかで、高度な絵付けの技術が発達しました。丹念に仕上げられた美術品で、一般的ではありませんでした。

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