2018年9月24日月曜日

その頃、ロンドンに住んでいた日本人

伊東博文
1863年に井上馨の薦めで海外渡航を決意、長州ファイブの一人として渡英しました。到着後、ウイリアムソンの邸に滞在し、英語を学ぶと共に博物館・美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めました。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じます。翌年、米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨と共に急ぎ帰国しました。
 
薩摩藩

1865年、選抜された19人の学生たちはトーマス・グラバーの船で密航出国しました。
到着後、3か月の語学研修ののち、ロンドン大学ユニバーシティーカレッジの法文学部聴講生として入学し、先に入学していた長州藩の2名とともに学びました。年少の長沢はアバディーンのグラバーの家に預けられ、地元の学校に通いました。ロンドン大学では英国軍事学の基礎とも言える歴史・科学・数学などを学び、約半数が経済的理由により一年後の1866年夏に帰国しました。

夏目漱石
1900年、文部省より英語教育法研究のため英国留学を命じられます。ロンドン大学ユニバーサルカレッジの講義は授業料を払う価値なしとして英文学の聴講をやめて、シェイクスピア研究家のWilliam James Craigの個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだりしましたが、英文学研究への違和感で神経衰弱に陥り始めます。1901年、化学者の池田菊苗と2か月間同じ下宿で過ごしたことで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭し始めますが、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま送り、下宿屋の女性主人が心配するほどの神経衰弱に陥ったので、1902年、急遽帰国を命じられました。

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