2019年3月14日木曜日

ナショナル・ポートレート美術館 (ヴィクトリア時代)




ロバート・スチーブンソン(Robert Stephenson) 1803-1859
蒸気機関車のコンテストで優勝したロケット号の大部分を設計。さらにリバプール&マンチェスター鉄道などの新設路線に向けて蒸気機関車を製造しました。

ヘンリー・リデル(Henry George Liddell) 1811-1898
オックスフォード大学クライスト・チャーチ・カレッジの寮長。アリスの父。

サー・エドウィン・ヘンリー・ランドシーア(Sir Edwin Henry Landseer) 1802-1873
ヴィクトリア時代のイギリスでランドシーアは動物画家として人気を誇っていました。 彼の作品の複製は中産階級の家に飾られ、宮廷画家としてヴィクトリア女王からたびたび彼女の家族やペットを描いて、 ビクトリア女王からランドシーアに「サー」の称号が贈られています。ランドシーアはニューファンドランド犬を好んで描き、白黒まだら模様のニューファンドランド犬は彼にちなんでランドシーアの名で呼ばれています。1831年にロイヤル・アカデミーの会員に選出、1866年にロイヤル・アカデミー会長に選出されるが、彼はこれを固辞しています。晩年は神経衰弱に苦しみ、それを紛らわすためアルコールと薬物に頼りますます悪化するという悪循環を繰り返す事になります。1873年、ランドシーアは亡くなり、セント・ポール大聖堂に葬られます。

ブロンテ姉妹(Brontë sisters)
姉妹の父パトリックはアイルランドに生まれた。35歳の時に裕福な商人の娘であったマリア・ブランウェルと知り合い結婚。夫妻の間には、1814年マリア、1815年エリザベス、1816年シャーロット、1817年ブランウェル、1818年エミリー、1820年アンと計6人の子供が生まれました。アンが生まれた1820年、一家はハワースの牧師館に移り住みましたが、翌1821年、母が38歳で亡くなります。1824年、マリア、エリザベス、シャーロット、エミリーは寄宿舎に入りますが、衛生状態が極めて悪く、翌1825年マリアとエリザベスは栄養失調のため結核にかかり家に戻されました。2人ともわずか11歳と10歳で死去。その後シャーロットとエミリーも家に戻され、ブランウェル、アンと共に空想にふけることになります。
1831年よりシャーロットは私塾で1年半学び、その後そこで教師を務めた。またエミリーはロウ・ヒル・スクールの教師を短期間務め、後にシャーロットとアンは住み込み家庭教師として働くようになりました。シャーロット、エミリー、アンは協力して詩集を作り、刊行。シャーロットは「教授」、エミリーは「嵐が丘」、アンは「アグネス・グレイ」とそれぞれ小説を書き、出版社に送りました。結果は、シャーロットのみ買われませんでしたが、第2作の執筆を求められ、1847年に「ジェーン・エア」を刊行しました。エミリーの「嵐が丘」とアンの「アグネス・グレイ」も同年に刊行されました。「ジェーン・エア」は特に反響が大きく、シャーロットは3作目「シャーリー」を書き始めました。
ブ ロンテ家唯一の息子であったブランウェルは父パトリックに溺愛され、甘やかされて育ったためか、うぬぼれの強い青年に成長した。ブランウェルは他の姉妹たちと同じく文学や絵画に才能を求めたが、いずれも失敗に終わり、彼は文学的才能に恵まれた他の姉妹たちに対して次第にコンプレックスを抱くようになります。彼は18歳の頃、自分を含めた姉妹4人の肖像画を描きましたが、後で肖像画から自分の姿だけを抹消しています。彼は酒と麻薬に溺れて急速に生活が荒れ、1848年9月24日に31歳で急死。その葬式の折にエミリーは風邪をひき、医者の診察を受けて結核にかかっていることが判明しましたが、彼女は自分が病気であることを認めようとせず、薬を飲むことも拒否し、同年12月19日に30歳で死去しました。続いてアンも結核にかかり、翌1849年にスカーバラに移りましたが、療養の甲斐もなく5月28日に29歳で死去した。その後、シャーロットは副牧師のアーサー・ニコルズと結婚。やがて妊娠が判明しましたが、翌1855年3月31日、妊娠中毒症のためお腹の子供と一緒に38歳で死去しました。父パトリックだけが例外的に長寿を全うし1861年に84歳で死去しました。

ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron)1788-1824
ジョン・バイロン大尉と2番目の妻キャサリン・ゴードンの間にロンドンに生まれました。1798年に従祖父の第5代バイロン男爵が亡くなり、他に相続人がいなかったため、10歳にして第6代バイロン男爵となり、従祖父が遺した土地と館ニューステッド・アビーを相続するため、ノッテンガムへ移りました。翌年ロンドンに出て1801年から1805年をハーロー校で過ごし、1805年にケンブリッジ大学に入学しましたが、学業を顧みず放埒な日々を過ごしました。1809年から1811年までポルトガル、スペイン。ギリシャなどを旅し、帰国後ロンドンに住み、この年チャイルド・ハロルドの巡礼を出版、大評判になりました。スイスのジュネーブでシェリーに会い、ともにスイス各地を巡遊し、ヴェネツィア、ラヴェンナ、ピサ、ジェノヴァで退廃した生活を続けます。1823年ギリシャ独立戦争へ身を投じることを決意。1824年、熱病にかかって同地で亡くなりました。

ウエリントン公爵アーサー・ウェルズリーDuke of Wellington)1769-1852
アイルランド貴族の初代モーニントン伯爵の3男。陸軍軍人となり1809年からナポレオン戦争でイギリス・ポルトガル連合軍の指揮をとった。1815年にはワーテルローの戦いでイギリス軍主体の反仏連合軍の指揮を執ってナポレオンを失脚に追い込んだことで知られる

フローレンス・ナイチンゲールFlorence Nightingale)1820-1910
裕福なジェントリの家庭である両親の2年間の新婚旅行中にフィレンツェで生まれ、フローレンスと名づけられました。慈善訪問の際に接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにするうちに、徐々に人々する仕事に就きたいと考えるようになります。
看護師を志し、ロンドンの病院へ就職します。就職に反対する母、姉とは険悪となります。婦人病院長となったナイチンゲールはイギリス各地の病院の状況を調べ、専門的教育を施した看護婦の必要性を訴えます。当時、看護婦は、病院で病人の世話をする単なる召使として見られ、専門知識の必要がない職業と考えられていた時代でした。
1851年にクリミア戦争が勃発すると、ナイチンゲールは自ら看護婦として従軍する決意を固めます。ナイチンゲールはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院に向かいました。しかし、兵舎病院は極めて不衛生であり、衛生状態の改善しました。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれました。看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来します。夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人」とも呼ばれました。ナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようです。
帰国後、ナイチンゲールチームは数々の統計資料を作成し、改革のためにつくられた各種委員会に提出しました。ナイチンゲールはクリミア戦争における英国の広告塔となることをいといませんでした。しかし、あまりに広告塔として利用されたせいか、戦争終結後はむしろ有名人として扱われるのを嫌うようになり、それが昂じて遺言では、墓にはイニシャル以外を記すことを許しませんでした。
セント・トーマス病院内にナイチンゲール看護学校がつくられました。その後、各種の看護学校がイギリス内に作られ、現在に近い看護師養成体制が整い始めました。
彼女自身が看護師として負傷兵たちに奉仕したのはクリミア戦争従軍時の2年間だけであり、その献身の象徴的イメージで名声を得ました。37歳の時に心臓発作で倒れてしまい、その後は虚脱状態に悩まされました。死去するまでの約50年間はほとんどベッドの上で過ごし、本の原稿や手紙を書くことが活動の柱となりました。


チャールズ・ロバート・ダーウィンCharles Robert Darwin) 1809-1882
16歳になった時、家業である医師をめざすため、スコットランドのエジンバラ大学に入学します。しかし彼は解剖など流血をともなう実習になじむことができず、医師になることを断念します。エジンバラ大学を中退、ケンブリッジ大学へ進学します。恩師の紹介でダーウィンは1831年春に、ビーグル号での博学探検へと出発しました。ブラジルのアマゾンでは広大な熱帯雨林が作り出した生物の多様性に驚き、アルゼンチンでは様々な化石にであい、チリでは5,000メートルを越える高所山岳地帯で貝の化石を発見します。ガラパゴス諸島では、隔離された環境の中で、生物はそれぞれの進化を遂げていました。生物が『自然選択による生存競争』という、永い時間の中で、徐々に変化してきたことを見るにつけ、進化論なら証明できることを確信しました。5年にわたる航海から帰国したダーウィンは『ビーグル号航海記』、『種の起源』など、多数の書物を出版しました。

 ヴィクトリア女王Queen Victoria)1819-1901

次世代の王位継承者がいなくなったので、ジョージ3世の四男ケント公爵エドワードは50歳を過ぎてあわてて結婚し、ヴィクトリアをもうけました。生八ヶ月の時にケント公は亡くなりましたl17歳の時従兄弟のアルバートが来訪し、一目ぼれします。1837年体感、1839年アルバート王子と結婚しました。17年の結婚生活の間に9人子供を生み、夫婦仲はむつまじく、国民の模範の家族になりました。1961年、アルバートが42歳で亡くなると、ヴィクトリアは公務の遂行を拒み、喪服を脱ごうとしませんでした。
この時代、イギリスは最盛期を迎えます。1833年奴隷が禁止、1851年万国博覧会開催、オーストラリアやニュージーランドに対する植民地建設が格的になり、インドへの支配も強化、清ではアヘン戦争が勃発、香港を獲得、スエズ運河株の獲得、エジプトの占領、1875年にはヴィクトリアがインド皇帝に就任します。1901年に女王は81歳で亡くなりました。

アルバート殿下(Albert, Prince of Saxe-Coburg-Gotha) 1819-1861
アルバート公は、ヴィクトリア女王と従兄弟にあたります。ヴィクトリアは17歳のとき、このハンサムでやさしい従兄弟に一目ぼれしました。夫妻の間には9人の子が育ち、家族そろってのバルモラン城での休息が王室の年中行事となりました。国民の多くは、このロイヤル・カップルに理想を見出しました。1861年、アルバート公が腸チフスのため急逝したあと、女王は喪に服視たまま、公の席に姿を見せなかったといいます。

ジョージ5世(George V, George Frederick Ernest Albert)1865-1936
宮殿のロイヤル・ファミリー(ジョージ5世、メアリ王妃、エドワード8世、メアリ王女)
 1910年、ジョージは45歳の時、ジョージ5世として即位しました。1914年、ヨーロッパは第一次世界大戦に突入します。ドイツと戦うイギリス人の心情を考慮して、サクス・コバーグ・ゴータ家からウインザー家に変更しました。王と王妃は野戦病院に、戦地に、出向き激励して回りました。
20世紀初頭のヨーロッパでは、フランスとスイスを除いて君主制でした。ジョージ5世の治世中、オーストリア、ドイツ、セルビア、ボヘミア、スロヴェニア、ハンガリー、ポーランド、ロシアなどで君主制が廃止されました。人々はイギリスも世界大戦で負けたら王政は廃止されるであろうと考えていました。
1936年、71歳で亡くなります。世界は第二次世界大戦へと向かい、大英帝国は解体していきました。

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