2016年1月25日月曜日

大英博物館で学ぶ日本の歴史 鎌倉時代  (1185-1333)

1192年、源頼朝は征夷大将軍に任ぜられて、鎌倉幕府を開いて政治を行いました。頼朝の家来になった武士は御家人と呼ばれ、御家人は領地を認められ、手柄があれば新しい領地を与えられました。御家人はそれに対して頼朝と幕府のためにつくす義務がありました。幕府には、武士を取り締まる侍所、一般の政治をとる政所、裁判を行う問注所がありました。地方には国ごとに守護、荘園に地頭を置いて、御家人を任じました。
 
頼朝の後、長男の頼家が将軍になりましたが、祖父の北条時政によって殺されてしまいます。次に頼家の弟・実朝が将軍になりましたが、頼家の長男で甥の公暁に殺されてしまいます。源氏は頼朝からたった三代で終わってしまいました。京都の貴族たちは、後鳥羽上皇を中心に、幕府を倒そうとしましたが、このころすでに北条氏は将軍を補佐する執権という役について幕府の実験を握っており、京都に攻めのぼった幕府軍が勝利をおさめました〈承久の乱)。幕府は、貴族の荘園3000箇所を取り上げて、武士に分け与えました。京都内外の警備や、朝廷の監視を任務とする六波羅探題を置き、北条一族の間で世襲されました。北条泰時は御成敗式目という武士の法律をつくり、武士による政治を強めました。

13世紀、チンギス・ハンの孫のフビライが中国を統一し、都を大都(北京)に移して、国号を元としました。高麗を服属させた後、日本にも元に従うよう要求してきました。そのときの執権は八代目北条時宗でした。

1274年と1281年の2回にわたって元軍が攻めてきました。日本軍は苦戦しますが、元が海戦になれてなかったのと、2回ともちょうど台風が来たので元軍を撃退することができました。 しかし、この戦いのころから、幕府の経済は弱まり、社会も乱れてきて、幕府に従わない武士も出てきました。

14世紀になって、武家政治に反対する後醍醐天皇は、幕府に従わない武士を見方にして、1333年に鎌倉幕府を倒しました。
愛染明王像 (1300-1400)
悟りの障害となる愛欲や煩悩を昇華させ、悟りへの力に変えるのが愛染明王です。
獅子の形をした冠を載せ、6本のてに弓矢や、蓮華、五鈷鈴などを持ち、蓮華の台座に座ります。

 阿弥陀如来像 (1200)

 行道面 菩薩 (1200)

観音菩薩立像 (1300) 


鎌倉文化の特色は貴族の文化が武士および庶民の手に解放されたことです。軍記物は当時の戦乱を題材とし、実在の武士を主人公としてその活動を生き生きと写しています。中でも平家物語は琵琶法師によって語られることを考えて作られた作品で、文字を読める一部の人だけでなく、広く民衆を招集者に予想しており、多くの人々に親しまれました。他に保元物語、平治物語、源平盛衰などがあります。

随筆も公家や僧侶の手によって書かれ、方丈記(鴨長明)、徒然草(吉田兼好)のような名作があります。

絵巻物(物語絵)は、物語の挿絵として成立し、寺社の縁起、高僧の伝記、戦乱などを題材としました。
公家や武士や僧侶の肖像画(似絵)も盛んに描かれました。
 
工芸では、明珍甲冑、刀剣粟田口吉光〈京都)、岡崎正宗(鎌倉)、長船長光(備前)が知られています。刀は備中の末行(12世紀末から13世紀はじめ)、1521年の備前の祐定、国光の短刀など。
 
陶芸では、加藤影雅が宗から新しい製陶法を伝え、瀬戸焼(1400年代の天目茶碗)の基をひらきました。


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