2016年1月26日火曜日

大英博物館で学ぶ日本の歴史 平安時代  (794-1185)

794年、桓武天皇は政治をあらためるため都を京都に移しました。長く平和で安らかであるようにという意味で、平安京と呼ばれました。平安京も唐の都の長安を真似て造られましたが、平城京よりも広く、東西約4.5km、南北約5.2kmもあり、都の中央には幅85メートルの大路が走り、その東を左京、西を右京と呼びました。


894年菅原道真の意見で遣唐使が廃止されました。中国文化を輸入していたのをとりやめ、日本風の文化をつくっていきました。これを国風文化といいます。




不動明王立像 (1100年)

仏教は浄土教が流行して、美術の文化にも関係した作品が多く造られました。藤原道長が建てた法成寺藤原清衡が建てた中尊寺は阿弥陀堂を中心としたものです。仏像寄木造り手法を完成し(900年から1000年ごろの吉祥天立像)仏像の大量の需要を満たしました。迎図(仏が来臨することを示した絵)も盛んに描かれました。


貴族は寝殿造り屋敷に住んでいました。南向きの寝殿=正殿を中心に東西に対屋を設けて廊下でつなぎ、庭園には池や中島がありました。貴族たちは、池に龍や鳥の頭の飾りをつけた船を浮かべて、雅楽を聞いたり、和歌を詠んだりして遊びました。藤原頼通が建てた宇治平等院鳳凰堂が代表的な建物です。


建物の内部の襖や屏風にはこれまでの唐絵に代わって日本の風物を題材とし、なだらかな線と、美しい彩色を持つ大和絵が描かれました。屋内の調度品にも、日本独自の発展を遂げた蒔絵(漆器に漆で文様を描き、それに金銀などの金属粉を巻きつけて模様とする技法(1500年代の硯箱)が多く用いられました。書道も和様が発達しました。

万葉がなの草書体を簡略化したひらがなや、漢字の字形の一部分を取ったカタカナが表音文字として生まれました。かなの発達によって、日本語をそのまま表すことが容易になり、日本人の感覚を生き生きと伝えることができるようになりました。
 

和歌という日本独自の文学がさかんになり、10世紀初めには最初の勅撰和歌集である古今和歌集が紀貫之らによって編纂されました。



伊勢物語 900年ごろに書かれた物語を1600年に絵にした


かなの物語としては、竹取物語、伊勢物語(住吉如慶筆による写しがあります)、宇津保物語、落窪物語、源氏物語(紫式部)(土佐光吉筆による「空蝉」の写しがあります)があり、かなの日記・随筆としては、枕草子(清少納言)、土佐日記(紀貫之)、更科日記(菅原孝標の女)、蜻蛉日記(藤原道綱の母)、和泉式部日記〈和泉式部)、紫式部日記(紫式部)があります。

11世紀の初め、一条天皇の后を中心に女性の文学者が活躍しましたが、これは藤原一族が皇后となった自分の娘に優秀な女性たちを仕えさせたからです。藤原道隆の娘・皇后定子には清少納言、藤原道長の娘・皇后彰子には紫式部が仕えました。紫式部はこのころ宮中に仕える人々をモデルにして「源氏物語」を書いていますが、藤原道長が光源氏のモデルだったのではないかと言われています。また、紫式部は日記も書いており、そのころ実際に宮中で起こったことを知ることができます。その後、道長が藤原氏の実力者となり、1018年には公卿23人のうち19人が藤原氏で占めていました。道長は「比の世をば我が世とぞ思ふ望月の かけたることも無しと思えば」(この世界は、満月が少しも欠けていないのと同じように、全部自分のものと思われる)と誇らしげに和歌に詠んでいます。


平安後期には絵巻物(絵と詞書とをおりまぜて物語の進行する)が発展しました。源氏物語絵巻、伴大納言絵詞、鳥獣戯画などが有名です。

地方では農村を支配した武士がしだいに成長して、平将門のように貴族に反抗するものが出現しました。12世紀になると、内輪揉めを起こした藤原氏は、源氏と平氏の武士を使って保元の乱を起こしました。武士の力はより強くなり、今度は源氏と平氏が勢力争いをして、平治の乱をおこします。


平清盛
は源氏を倒して、貴族の仲間入りをして政治を行うようになりましたが、平氏一門が中心だったため、貴族からも地方武士からも反対されるようになりました。伊豆に流されていた源頼朝は、関東の武士を率いて、富士川、一の谷、屋島と平氏を打ち破り、1185年壇ノ浦の戦いで平氏は滅びてしまいます。

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