2014年6月30日月曜日

犬の座り方

タワーブリッジの前で、まっすぐ足を伸ばして景色を見ている犬がいました。すごく可愛かったので、写真を撮らせてもらいました。

2014年6月29日日曜日

ヒッドコート・マナー

コッツウォルズのヒッドコート・マナーに行ってきました。

























2014年6月28日土曜日

6月のバイブリー

バイブリーのアーリントンローの前の

小川を泳ぐ水鳥の親子たち。


コルン川から見たアーリントンロー。

民家の庭も

一年で一番

美しい季節を迎えています。

水辺で寛ぐ白鳥の親子たち。

2014年6月27日金曜日

コッツウォルズのパブ

 バイブリーのキャサリンズ・ウィール・パブで、

ランチを食べました。

レストランの中はこんな感じ。

私はスカンピ(エビフライ)を食べました。

外で食べることもできます。

2014年6月26日木曜日

カッスル・クーム

コッツウォルズの南西の端に位置する

カッスル・クーム村に行ってきました。

ハイ・ストリートには、

こんなかわいい入口の家がありました。

教会の裏の道を進むと、

マナー・ハウスが見えてきます。

高級ホテルです。

宿泊客らしき人たちが、

庭のパラソルの下で

アフタヌーンティーを楽しんだりして

優雅に過ごしていました。

2014年6月25日水曜日

ヴィクトリア&アルバート美術館 (歴史、銀器、絵画、タピストリー、舞台衣装、フレスコ画、石膏複製、ガラス、陶器)

V&Aは世界中の工芸品、彫刻、絵画、織物、装身具、家具、陶磁器など500万点が展示されている世界最大の工芸美術館です。

正面入口の デイル・チフーリのシャンデリア。

1851年に開催されたロンドン万博で得た純益を元に、サウス・ケンジントン地区の土地と万博展示品を購入。1852年、モールバラ・ハウスに産業博物館を設立します。1857年に現在地に移転し、サウス・ケンジントン博物館と改称されました。1899年名称をヴィクトリア&アルバート美術館と改め、新たな美術館建設を開始し1909年完成しました。

食堂として作られたギャンブル・ルーム。ギャンブルは設計者の名前です。

ポインター・ルームは、オランダ製タイルで装飾されています。

ウイリアム・モリスが手掛けたグリーン・ダイニングルーム。
モリスは装飾芸術家としてアーツ&クラフツ運動を促進。中世やルネッサンスの芸術と文学に着想を得て細部にまでこだわったデザインは植物をイメージした曲線美で一世を風靡しました。
1861年にモリス商会を設立。建築家のウェッブ、画家のバーン・ジョーンズたちと一緒に、家具、壁紙、タペストリー、織物などをデザインしました。この部屋の装飾は1867年モリス紹介が依頼を受けた最初の重要な仕事で、 ウェッブが天井・フリーズ・壁の漆喰パネル、バーン・ジョーンズはステンドグラスのデザイン、漆喰仕上げの淡いグリーンの壁はモリスが担当しました。

銀器は毒に反応して色が変化することと、飲み物や食べ物を腐りづらくする作用があるためヨーロッパでは古代ローマ時代から愛用されていました。

ワイン・クーラー。

ニューファンドランド犬 エドウィン・ランドシーア
ランドシーアの犬の絵の中でもっともポピュラーなのは、白黒まだら模様のニューファンドランド犬。 ランドシーアは宮廷画家としてヴィクトリア女王からたびたび彼女の家族やペットを描いた作品の委嘱を受けるなどイギリスの上流階級の間にも名が知られた存在で、中産階級の家には彼の作品の複製が飾られていました。

ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829‐1896)「インカを征服するピサロ」(1846)

1848年ラファエロ前派が、ミレイ、ハント、ロセッティを中心に誕生しましたが数年で終息。

ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875) 「木挽き」(1852)
バルビゾン派の農民画家 代表作「種まく人」「落穂ひろい」

エドワード・バーン・ジョーンズ「水車小屋」
ラファエロ前派は数年で終息したが、ロセッティの弟子となったバーン・ジョーンズとウイリアム・モリスに受け継がれました。産業革命の反動からラファエロ前派が主題とした神話や伝説の世界に魅了されます。

バーン・ジョーンズ設計のピアノ。

ダンテ・ガブリエル・ロセッティ 「白昼夢」(1880年)
スイカズラを手にするモリスの妻ジェインを描きいました。

ターナー「セント・マイケル・マウンテン」(1834年)
ロイヤル・アカデミーの展覧会に出品された作品。

コンスタブル「干し草車」の下書き
完成品はナショナル・ギャラリーにあります。

タピストリー
タピストリーは作るのに非常に手間がかかり高価だったので、見事なタピストリーをいくつも持っていることは自慢の種でした。石壁にタピストリーを吊り下げると防寒効果がありました。移動する時いつでも取り外して別のものと変えたり、場合に応じてかけ替えることもできます。旅行先や戦陣でタピストリーを吊り下げ臨時の礼拝所を作ることができます。ローマ時代から生産が行われていましたが、中世になるとフランドル地方が量も質も最高の産地となりました。丈夫な縦糸を張り、様々な色に染めた横糸を絡めて図柄を表現していきます。横糸は途中でブツブツ切って止めてはまた別な色の横糸に変えていきます。横糸の材料は基本ウール。幅の広いタピストリーの場合、数人の下りてが横に並んで共同で作業をすすめます。織り手は常にタピストリーの裏側にいます。

ライオン・キングの舞台衣装

ミック・ジャガーの衣装

カニングの宝飾品。(1830-1850)
バロック真珠と七宝を使用したルネッサンス様式風ペンダント。
男性人魚がメドゥ-サの首を切り取ったところを描いている。

ロード・レイトンのフレスコ画
フレスコはイタリア語でフレッシュ(新鮮)という意味。石灰を壁に塗り、まだ乾かないうちに鉱物質の絵具で壁画を描きます。一部分ずつ壁に上塗りをし、乾かないうちにそこだけ仕上げ、隣に移るので完成までに時間がかかりました。紀元前15世紀のエジプトの墓、エトルリアの墓、初期キリスト教徒の墓の壁画にフレスコが使われています。13世紀イタリアでまた人気が出て16世紀に盛んになりますが、17世紀に油絵に押されて下火になります。

窓の外にはプラタナスと自然史博物館。

カスト・コートは複製の部屋で、1873年に美術学生の教育のために作られました。
大きな柱はローマのトラヤヌス帝の記念碑(113年)のレプリカ。

ダビデ像はミケランジェロが1501年から1504年にかけて作成した大理石像です。5.17メートル。 ダビデは旧約聖書に出てくるイスラエルの2代目統治者で、巨人ゴリアテに石を投げようとしている場面だそうです。ヴェッキオ宮殿前に置かれていましたが、1873年から美術館内に移されました。

ガラスの壺 (古代エジプト、紀元前1400-1336年)

ガラスのコップにエナメル装飾(シリア、1300-1350)

 ガラスの入れ物にエナメル装飾(ベネチア、1400年代)

 ガラスのゴブレット(イングランド、1586年)

 ワイングラス(オランダ、1689年)

 レオナルド・ダヴィンチのノート・ブック、1490、ミラノ

ミケランジェロの奴隷のモデル、1516、ユリウス2世の墓用に製作

ゴブレット(1350年)、シリアで造られたエナメル彩の高級グラスで、十字軍が聖地からイングランドに持ち帰り、イーデンホール家に伝わりました。革のケースは後で作られました。(1400年)

アラゴンのフアナのステンドグラス(1496)
ブリュージュのセント・バジル教会の聖血礼拝堂を飾っていたステンドグラス
ガラスは5000年以上も前からエジプトやメソポタミアで造られており、ローマ人も盛んにガラスを作りました。中世ではキリスト教の聖遺物箱に優れた工芸品が多くつくられました。色ガラスは神秘的に輝くけど宝石よりも安く、どんな形にでも焼き付けることができ便利です。さまざまな金属酸化物を使って美しい色ガラスを作り、色ガラスの粉を盛り付けて焼く技術を使って、フランスでは9世紀カロリング朝の時代からステンドグラスが作られ始めました。

エナメルのカスケット(聖遺物入れ)(リモージュ、1200年)

6階のエレベーター・ホールから見るブロムストン・オラトリー教会。

縄文式土器(3500-2500BC)

唐三彩(700-800)

中国の陶磁器の輸出ルート

西暦600年ごろ中国北部で初めて白磁ができます。カオリン質の高い素地に不純ブルが少ない透明釉をかけて1350度で焼成したもの。

宋時代は文化・芸術が最も発展した時代であり、産業の発展は国民の生活の豊かさを与えました。各地に陶磁器の鎌が築かれ、独自の特徴を持った焼物が作られました。
 耀州窯 Yaozhou kilns  北宋(1000-1200)

 龍泉窯 Longquan Kiln  南宋(1200-1300)

 定窯 Ding kilns  北宋(1000-1200)

 磁州窯 Cizhou kilns  北宋 (1025-1050)
 
 景徳鎮 Jingdezhen  南宋 (1200-1250)

元のフビライは北京に都を置き、広い範囲を支配しました。
モンゴル民族による陸上と海上貿易の確立は、中国陶磁器の名声を世界に広めました。

 景徳鎮 Jingdezhen  元 (1300-1400)
 
イズニック(1560-1590)

メディチ(1574)

 大航海時代の磁器の貿易ルート

 
青花(染付)
 
 ポルトガル・イギリス・オランダ製の青花

 
 デルフト焼き

 ヨーロッパ向け中国磁器

左 中国製(1695-1710)
右 フランス製(1710-1720)
後 オランダ製(1687-1701)
前 ドイツ製(1730-1740) マイセン

日本の磁器
豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、九州の諸大名が多数の陶工を連れ帰りました。その一人李参平が1616年に有田の泉山で良質の原料石を発見し、日本で初めて磁器を作り始めました。その後酒井田柿右衛門が色絵を開始します。有田の磁器は伊万里港から積み出されたため、伊万里焼の名で知られるようになりました。

有田で造られた 柿右衛門 1690-1720

マイセン製柿右衛門 1729-1735

フランス製柿右衛門 1735-1740

有田で造られた伊万里

有田で造られた伊万里

オランダ製伊万里

イギリス製伊万里

ウエッジウッド(1790)
大英博物館にあるローマ時代のガラスの壺のコピー。

セーヴル磁器 マリー・アントワネットとルイ16世(1788)

ロシアのエカテリーナ女帝が注文したセーブルの食器(1798)
ロシアに初めてセーブル磁器がもたらされたのは1757年で、ルイ15世からロシア宮廷への贈り物の中に含まれていました。セーブル磁器は、その後ロシアの宮廷に珍重され、なかでもエカテリーナ2世が発注して作らせた豪華なディナー・セットは有名です。エカテリーナ2世が1777年、セーブル窯に注文した744点の食器群。古代ギリシャ様式の厳正なシェイプにブルーと金彩で絵付けされ、器の中央には皇后の頭文字が花文字で描かれています。

デルフト焼(1690)
オランダのデルフトではマジョリカ焼に改良を加えデルフト焼きを作りました。原料粘土を精選して、丁寧に成型し、磁器のように薄手にし締め焼してから、錫釉をかけて乾燥させ、絵付けをし、透明 釉をかけて高温で本焼きをします。高い温度で焼くとほとんどの絵の具は色が飛びますが、コバルトは残ります。陶器より磁器に似ていて、強く値段も安いデルフトはヨーロッパ内で賞用されました。

マヨルカ焼き
ペルシャでは全面に錫釉をかけ白色にして、コバルトで絵付けをして、青花に似た陶器を作っていました。この技法はイスラ ム文化と共にイベリア半島に伝わり、中継貿易地であるマジョルカ島の商人によってこの種の陶器がイタリアにもたらされました。イタリアの陶工たちも同じよ うな陶器を作り始め、イタリアではマヨルカ焼と呼ばれました。15世紀に作られ始め、16,17世紀に盛んにつくられました。

6階の真中の部屋から

1階の入口が見えます。

初めて見た時感動した陶器の部屋

セーヴル磁器
1745年ポンパドゥール夫人がルイ15世の愛妾になり、工芸に無関心だった王を説き伏せ1753年に陶器工房をセーヴルに移し、資金の援助などした結果、1768年フランス最初の磁器が生まれました。フランスはステンドグラスやエナメル技術を磁器の絵付けに応用しました。

マイセン磁器
ザクセン 公国のアウグスト2世は首都ドレスデンをバロックの都にしたり、スウェーデンと戦争をしたり、お金を得るために領内にいろいろな産業を興すことに努めました。ベルリンからやって来た錬金術師ベッドが‐はいろいろな石を粉末にし、陶土と練り合わせて焼いてみました。そして大理石の粉末に陶土を合わせ1707年に赤黒い磁器が完成しました。そしてザクセン領内で採れる領内の土を原料にして1710年に白い磁器を作ることに成功しました。後継者へロルトの時代に絵付けや造形が進歩を遂げ、1720年に彫刻家ケンドラーが招かれ人物や動物の磁器が始まりました。