2017年1月30日月曜日

大英博物館で学ぶ日本の歴史 弥生文化 (500BC-250AD)

はもともと東南アジアでとれたものですが、日本へは紀元前2世紀ごろ朝鮮南部から九州北部に伝わりました。弥生時代には近畿地方から、関東地方、東北地方まで広まりました。日本全土が農耕社会になり、計画的に食料を生産するようになりました。穀物は高床式の倉庫貯蔵穴に保管されました。治水、灌漑など集落による共同作業も発達します。集落内に貧富の差が生じ、集団内の生産の指導や他集団との交渉などをする首長が現れ、有力集団の首長は支配者としての性格を強めていきました。

このころ青銅器鉄器が同時に伝わりました。鉄器は実用に使われ、農具や工具が木製・石製から鉄製へと変化します。青銅器は主に実力者の権威をあらわすもの、祭器や装身具として使われました。


 鏡

 北九州を中心に銅剣と銅鉾(紀元前100年ころのもの)

 銅鐸 和歌山 紀元前200年ー20年

 銅鐸 和歌山 (20-250年)

 
弥生式土器 佐賀と愛知 100-250年

高温で焼き上げた薄手で赤褐色の硬い土器です。模様も簡単になり、素朴な感じですが、ろくろを使うようになったので、形も整い、たくさん作られるようになりました。

石製紡錘車や木製の織機を使って原始的な織物が発達しました。
西暦57年に「倭」の国王の使者が後漢の首都洛陽に派遣され、光武帝より金印を賜っています。り九州北部の有力者が中国と直接交渉を持ち、外交的に認知されていたことが分かります。古代の中国人は日本のことを「倭」と呼んでいました。「邪馬台国」というのも、日本人が「ヤマト」と呼んでいた国の、中国側当て字でした。
西暦239年には邪馬台国の女王卑弥呼が魏の首都洛陽の明帝に使者を派遣し、奴隷と布を献じ、そのお返しに「親魏倭王」の称号と金印・銅鏡・絹織物を受け取っています。邪馬台国の女王「ヒミコ」というのも、本当は「日神子」または「日御子」または「日巫女」であり、つまり太陽に使える女性という意味だったのではないでしょうか。のちの大和朝廷の時代に作られた神話の中に、天皇家の祖先として出てくる天照大神の話がありますが、モデルは卑弥呼だったと言われています。西暦248年9月5日に皆既日食がありました。これが「天の岩戸隠れ」じゃないかと言われています。太陽に使える巫女にとって、太陽が隠れてしまったことは大変な問題です。それで、責任を取らされて殺されたのか・・・日本一の勢力を誇った女王卑弥呼は、ちょうどそのころ歴史から消えています。

まだ、このころの日本には文字はなく、日本側の記録がないため、この時代の日本史は中国の歴史書を基に作られています。卑弥呼が消えたころ中国は戦国時代に入り、その後約150年間、日本に関する記録が中国の歴史書から姿を消しますが、日本ではその間に大和朝廷による統一が進められていました。

2017年1月17日火曜日

西洋の陶磁器の歴史


イスパノ・モレスクムーア人によって伝えられ、スペインで焼成された錫釉陶器をイスパノ・モレスク陶器といいます。13世紀にモンゴル人がサラセン帝国へ侵入し、各地の窯場が破壊されたため、錫釉陶器やタイルの焼成技法をもった陶工たちを含むたくさんのイスラム教徒がスペインに移住しました。13世紀末から14世紀後半の間にマラガ、ムルシア、グラナダなどスペイン南部で製作された陶器には、コバルトの青とラスター彩で唐草文、組紐文、イスラム文字、生命の樹などが描かれました。1492年のキリスト教徒の失地回復により、イスラム教徒は北アフリカに追放されてしまいましたが、南部の陶工たちは戦乱を避けて東海岸バレンシア地方に移住し、マニセスとパテルナの町がイスパノ・モレスク陶器の生産地になりました。


マヨリカマヨリカ島には窯場はありません。バレンシア地方のアニセスやパテルナで焼成された陶器はマヨリカ島に送られて、そこで改めて船積みしてイタリアに輸出されたのでこの名がつきました。
やがてイタリアでも模倣され、シシリー島を中心に焼成されました。聖書や神話、ラファエロの絵画にヒントを得たグロテスク文様などイタリア独自の装飾を発展させました。16世紀になると、徐々に実用性を離れ、絵画や彫刻と同様にルネッサンス芸術としてメディティ家をはじめ裕福な貴族がパトロンとなって窯を開いて、すぐれた陶工や陶画家を招いて、美術陶器の製作に努めました。テラコッタの彫像に錫釉をかけた彩色の大彫刻製作も始まりました。


メディチヨーロッパで作られた最初の磁器は1574年頃、フィレンツェの工房で作られたメディチ磁器です。
石灰泥と白泥土とフリット(ガラス質)を混ぜ、鉛を含む釉を着けて、中国の青花磁器をまねしたものでした。しかし、東洋から磁器が大量にヨーロッパに入ってきて競争に負けたこと、焼成の難しさなどの理由から、製造を止めてしまいます。


ライン炻器
ドイツでは中世末期からケルンを中心に実用陶器としてストーンウェアが多量に焼成されていました。珪酸を豊富に含んだ細かい粒子の土を胎土とし、ろくろで成形、素地が柔らかいうちに器の表面に浮き彫りを施し、乾燥させたあと、長時間焼成します。窯の温度が1000度から1200度に達した時、窯の中に岩塩を投げ込むと素地の表面は薄いソーダガラス質の釉薬で覆われます。


デルフト
ネーデルランド地方でも、16世紀初め頃から、イタリア人によってマジョルカ陶器とタイルの生産が始まっていました。1602年オランダは中国磁器を積んだポルトガル船サン・ティアゴ号を拿捕、1604年にもサンタ・カタリ-ナ号を拿捕し、10万点あまりの磁器がオランダに運ばれて競売にかけられました。その事件が中国陶磁器への関心を高め、製陶業の方向を変えていきました。デルフトのマジョリカ工房の中には、中国磁器と間違えられるほど質の高い製品に挑戦した工房も現れました。
陶土を純白にするため粉骨を混ぜて、白く薄い陶器を完成、コバルトの青色で景徳鎮窯の青花の模作をしていましたが、1620年以降は絵柄にオランダの風物を取り入れるようになり、細い輪郭線のある素描風の技法を使うようになります。食器として用いられるより、室内を飾る調度として利用されることが多かったようです。


マイセン
ザクセン大公アウグスト2世強力公(ヨーロッパには同名の王侯が多かったので、ドイツ語でder starke、英語でthe strongと呼ばれました)は、強国スウェーデン相手に戦争をやったり、首都ドレスデンに壮麗なバロック建造物をたくさんたてるために、お金が必要でした。昔ながらの農牧業から得られる税収入は知れているので、領内にいろいろな産業を興すことに努めました。磁器を作ることはヨーロッパの陶工や王侯の夢であり、またそれに成功すれば偉大な利益が転がり込むことは確実でした。
1710年、強力公に磁器作りの実験を任されたベットガーはついにザクセン領内のアウェというところで取れる白い土を原料にして白い磁器を作ることに成功しました。強力公はザクセンで磁器作りを独占するために、ドレスデンから30kmほど離れたザクセン大公国の旧都マイセンにある城内に窯を設けました。そして外部の人間がマイセンの町に入ることを禁じ、陶工が町の外へ出たり、磁器作りの技法を他人にしゃべることを厳禁して、秘密保持に努めました。
1720年、ウイーンから招かれた画家のヘロルトによって絵付けや造形が進歩し、鮮やかで深い色調の赤、紫、茶、緑、黄、青を用いた色絵付けが始まりました。ヘロルトは中国風の建物や人物を中心としたシノアズリー調(ヨーロッパから見た東洋。東洋からの品物を忠実に写すのではなく、それらを自由に組み合わせて独特の作品を作り出し、それにロココ、バロック、ゴシックというヨーロッパの様式を混ぜ合わせたもの)の図柄に金彩を加えた豪華な作品を作りました。1725年頃からは形も文様も忠実に柿右衛門の写しを作ります。1730年代には銅版画を写した草花や昆虫などを丁寧に描くようになります。コバルトで絵付けをする技法が完成し、1730年には「ブルーオニオン」(景徳鎮窯の青花の皿に描かれていたザクロの文様を、ザクロを見たことがない絵付師が間違えて玉ねぎを描いた)が大量に生産されました。
また、ケンドラーによって、皿、鉢、花瓶、人物や動物の置物が作られるようになりました。彫像作品も多く生み出されました。マイセンでは各国の王侯貴族からの注文を受けており、紋章をつけた食器や、風景を主題にした食器などが大人数分生産されました。
セーヴル
1673年ごろルーアンにおいて、ガラスと陶器の技法の組み合わせによって軟質磁器が開発されました。17世紀末ごろにはサン・クルー工房、1725年にはシャンティ-イ工房、1735年にはヴァンセンヌ工房で、マイセン写しの柿右衛門の色絵の器を生産しましたが、1756年にセーヴルに移転しました。
セーヴルはルイ15世の愛人ポンパドール夫人によって、工芸に無関心だった王を説き伏せて、1753年にパリとヴェルサイユの中間にあるセーヴルに陶磁器工房を作らせました。優れた人材が投入され、宮廷画家として知られていたブーシェが磁器の文様を描くために登用されたりしました。1757年には華やかなピンク色の釉「ロゼ・ポンパドール」が開発されました。ポンパドール夫人の趣味に反映して、色釉を地に塗り、窓枠を金彩で縁取り、その中に絵付けを施したデザインが流行しました。
中国にいたフランス人宣教師ダントルコートが、景徳鎮から磁器の原料であるカオリンを持ち帰り、これとよく似た土をリモージュ近郊で発見したことから、1768年、フランスで最初の磁器が生まれました。ったん磁器ができると、七宝工芸で多種類の色を使っていた技術を使い、まるで細密画のような絵付けが行われました。これまでの中国の磁器では見られない絵付けであったため、中国に逆輸出され、粉彩と呼ばれる華麗な絵付けの磁器が作られるようになりました。フランス革命で王政が廃止されると、セーヴルは国立工房になりました。
リモージュ
1765年サンティリエで質の高いカオリンが発見され、より固く透明感のある硬質磁器が焼かれるようになります。七宝工芸の中心として栄えていたリモージュでも、1771年から磁器の生産が始まります。1778年に王立になった「ロワイヤル・ド・リモージュ」は「ルイ15世」「マリーアントワネット」など宮廷人たちにちなんで薄く透き通るほどに白く美しい陶器を焼き上げました。フランス革命後も生産は続けられ、19世紀には磁器の町として名声を得ます。瑠璃釉地に金彩のアクセサリーが有名です。現在もリモージュには30以上の窯があり、フランス有数の焼物の町です。
リチャード・ジノリ
1737年ジノリ候がフィレンツェ郊外で始めたドッチア工房は、初め柿右衛門や清朝の粉彩を真似て、花や鳥を描いていました。18世紀末頃にはリモージュ地方から上質の磁土が得られるようになり、質がいい磁器が作られるようになりました。小花や果実などがモチーフになっている「イタリアン・フル-ツ」は有名です。「ベッキオ・ホワイト」は白い地が美しく、編みこみのような浮き彫りが特徴です。
ロイヤル・コペンハーゲン
1773年、デンマークでもミュラーが硬質磁器の製造に成功しました。国王クリスチャン7世の保護をうけ、1779年に王室の所有になり「ロイヤル」の称号をもつようになります.「フローラ・ダンカ」は植物図鑑に描かれた花の挿絵を職人が忠実に模写したものです。「ブルー・フルーテッド」はロイヤル・コペンハーゲンの顔で白地に青の模様が描かれており、特に「フルレース」は縁がレース状に透かし彫りされています。
チェルシー
1745年、フランスから学んだと考えられるガラス質の軟質磁器がチェルシー工房で作られました。器形は銀器を手本にしたものが多く、初期の頃は白磁に浮き彫りで装飾を施したものが多く作られていました。1750年には彫像の制作も始まります。1769年ダービー工房と合併されました。
ボウ
1749年にロンドンに設立されたボウ工房の製品は、マイセンよりも丈夫で、どこの製品よりも安くて、使いやすいと評された実用的磁器でした。胎土に動物の骨を粉にして混ぜることで、磁胎を硬く焼くことができるという骨灰磁器技術はボウの工房で最初に開発され、英国のほとんどの工房で採用されました。初期の頃は、マイセンの柿右衛門手色絵磁器を写していました。その後、龍、雲、牡丹など中国的な図柄が多くなり、より薄手の作品が増えます。1756年に転写プリントによる作品を作ったのもボウが初めてでした。
ストーク・オン・トレント
陶磁器の町として有名なストーク・オン・トレントには、ウエッジウッド、ロイヤル・ドルトン、ミントンといった有名陶磁器ブランドの工場が集中しています。スタッフォ-ドシャー県は元来、陶器作りに最も重要とされる水と良質の土に恵まれていました。産業革命により量産化が進むと、燃料として必要になる石炭までもがすぐ近くで調達できるという、絶好の条件がが揃っていました。18世紀半ばにジョシュア・ウエッジウッドらがこの地に目をつけ、次々と陶磁器の名門ブランドが専用の窯を築き始めました。時を同じくして、ジョシュア・スポードによって従来の粘土に牛などの動物の骨灰を混ぜて陶器を作るボーン・チャイナ製法が見出され、強度が優れているだけでなく、独特の透明感が人気をよび、世界的な流行となりました。
ウエッジウッド
英国陶磁器の父として広く知られるジョシュア・ウエッジウッドが、初めて自分の工場を建てたのは、1759年のことでした。
実験に実験を重ね、当時イギリスで採れる土ではどうしても作れなかった白い陶器の発明に成功しています。彼は芸術家、科学者、実業家としても才能を発揮し、低いコストで大量生産する技術を編み出し、英国で流行しはじめたお茶を飲む習慣をポピュラーなものにしたり、高温を正確に測る温度計の発明など彼の業績は計り知れません。工場内にビジターセンターを設けて伝統的な製作工程のデモンストレーションをしており、歴史を見せる博物館などの施設が整っています。
ロイヤル・ドルトン
ロイヤル・ドルトンはミントン、ロイヤル・アルバート、クラウン・ダービー、ロイヤル・ドルトンの4つの有名なブランドから成り立っています。イングランドで生産されるボーンチャイナの40%、そして英国で生産される陶製人形の50%はロイヤル・ドルトンで製作されています。7500人の従業員が11の工場で働いており、英国一の規模を誇っています。4つのブランドの中で最も古いのはロイヤル・クラウン・ダービーで1748年に創業され、デザインの面では18世紀の日本の伊万里の影響をかなり受けています。ロイヤル・アルバートは4つのブランドの中では一番新しく1896年創業ですが、「オールド・カントリー・ローズ」は1962年から今までに9000万客も売れたという世界で一番売れているデザインだそうです。ロイヤル・ドルトンで売られているもので一番高い人形は300万円。ハンドペイントに160時間かかるそうです。
スポード
スポードが創立されたのは1770年。今でこそボーンチャイナは英国のすべての陶器メーカーで作られていますが、当時のイギリスでは真っ白に輝く陶器を作るには長年の夢でした。工場という工場で実験が繰り返される中、スポードがいち早く粘土に骨灰を混ぜ合わせる方法を発明したのでした。1806年に工場を訪れたプリンス・リージェント(後のジョージ4世)によってスポードは王室御用達の名誉を賜ることになります。博物館では1867年にパリ万博に出品された作品を始め、珍しい陶器を見ることができます。芸術家によって絵付されたり、ふんだんに金で装飾してあったりと、スポード王侯貴族に愛されてきた歴史がよく分かります。

2017年1月16日月曜日

サボイ・ホテル


 サボイ・ホテル

正面の階段を下ると

待合スペースがあり

有名なアフタヌーン・ティーの部屋があります。

ここにはお菓子屋さんがありますので

外部の人も

お菓子を買いに

来ることができます。

階段を上ると

 レセプションがある

 ロビーがあります。

邸宅の居間みたいに、


 
落ち着いた感じです。

2017年1月15日日曜日

ローズウッド・ホテル

ホルボーンの近くにある

エドワーディアンの建物は

ローズ・ウッド・ホテル。

中庭には

木でできた馬のオブジェがあったりして

面白い。

入口は狭い。

廊下に飾られた花。

ダイニング・ルーム。

あちこちに

小部屋があります。

こちらは化粧室。

トイレも豪華です。

2017年1月14日土曜日

大英博物館で見る中国の陶磁器


北宋 汝窯 青磁 1086-1125

元の時代 龍泉窯 1327

南宋時代 官窯 1127-1219

宋時代以前 越州窯


北宋時代 定窯

金時代 鈞窯

南宋時代 龍泉窯

元時代 龍泉窯



元時代 龍泉窯

明時代 釣窯


北宋 汝窯

元と明の景徳鎮


明 永楽帝時代(1403-24) 景徳鎮

明 永楽帝時代(1403-24) 景徳鎮

明 永楽帝時代(1403-24) 景徳鎮

明 万暦帝時代(1573-1620) 景徳鎮

 明 成化帝時代(1464-87) 景徳鎮

 明 成化帝時代 景徳鎮 

明 宣徳帝時代(1426-35) 景徳鎮  輸出用

明 宣徳帝時代 景徳鎮
 
 明 宣徳帝

宣徳期(1426-35)以来、官窯品の裏には「大明宣徳製」の年款銘が記されています。
小形の盤、鉢、碗などが多くなります。文様も花鳥文や唐草文が多くなります。
成化の時代に、五彩磁器(赤、緑、紫、黄)や黄地青花、豆彩などの色絵が多く作られています。 1557年、景徳鎮の独占は崩れ、雲南省の民窯でも青花磁器が生産され輸出される様になります。官では「大明嘉靖年製」なのに対し、民では「大明年制」、または「大明年造」。

 明

 明

 明

 明

 
 清

 清

 清

 清

 清

 清

 清

明 宣徳帝時代(1426-35) 景徳鎮


明 龍泉窯 1567-72

元時代 景徳鎮 1351