2016年12月31日土曜日

ナショナル・ポートレート美術館 (チューダー王朝時代)

ヘンリー7世Henry VII) 1457-1509
ボズワースの戦いでリチャード3世を破って王位を勝ち取り、エドワード4世の娘のエリザベス・オブ・ヨークと結婚して王位を固め、薔薇戦争の混乱を解決しました。官僚機構を中央集権的な強力なものにし、政治を安定させ、スペインと友好を結び、フランスとの平和を維持し、貿易を促進し、、優れた統治を行いました。グリニッジ宮殿やリッチモンド宮殿を建て、ウエストミンスター寺院にチャペルを造りました。

ヘンリー8世Henry VIII) 1491-1547
ヘンリー7世の次男。6度の結婚に加えて、ローマ・カトリック教会からのイングランド国教会を分離し、ローマと対立し、修道院を解散し、自ら国教会の首長となりました。

キャサリン・オブ・アラゴンCatherine of Aragon) 1487-1536
アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャのイザベラ女王の4女。ヘンリー7世の長男のアーサー皇太子に嫁ぎましたが花婿は急逝しました。1509年、ヘンリー7世の死により王位を継承したヘンリー8世と再婚しました。ヘンリー8世とキャサリンとは最初は仲睦まじかったのですが、度重なる流産と死産に見舞われ、ヘンリーの愛情は徐々に冷えてしまう。ヘンリーは後継ぎが欲しいという気持ちが高まり、年をとって次第に出産が難しくなるキャサリンとは離婚して、別の女性を王妃にして産ませようと考えるようになった。男の跡継ぎが一番大事にされていた時代だったこともあるが、ヘンリーはキャサリンの度重なる流産と死産は亡き兄アーサーの怨念ではないか、兄の妻と結婚したものは呪われる、という聖書の教え通り、この結婚は呪われているとすら考えるようになっていました。1533年、キャサリンはヘンリー8世から結婚の無効を突きつけられ、王妃の座を追われた。庶子扱いとなった一人娘メアリーとの面会も文通も禁じられました。3年後、病死。ヘンリーとアン・ブーリンによる毒殺ではないかという噂が広まりました。

アン・ブーリンAnne Boleyn) 1507‐1536
キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となったアンはヘンリー8世の愛人になるよう求められたが、アンは強硬に王妃の座を要求したため、ヘンリーはローマ教皇にキャサリンとの「離婚許可」を求めることになりました。しかし、キャサリンの甥に当たるカール5世(スペイン王カルロス1世)も反対しており、教皇庁は許可を出しませんでした。ヘンリー8世はこれに激怒して、教皇庁との断絶を決意。イングランド国内において国王こそ宗教的にも政治的にも最高指導者であることを宣言し、アンを正式な王妃に迎えました。1533年9月アンは王女エリザベスを出産しました。アンは贅沢を好み、宮殿の改装や家具・衣装・宝石等に浪費した。一方、ヘンリー8世はアンの侍女のジェーンへと心移りし、次第にアンへの愛情は薄れていきます。アンは男児を流産すると、男子を産まず、流産を繰り返すアンから王の寵愛が離れました。結婚から2年後、アンは不義密通を行ったとして反逆罪に問われ、ロンドン塔で処刑されました。

トマス・モアThomas More)1478-1535
国王とキャサリン王妃の離婚に反対した大法官も処刑されました。

トマス・クランマー(Thomas Cranmer )1489-1556
1533年カンタベリー大司教に就任します。キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚を承認した。
次のエドワード6世の治世が始まると、クランマーは更に積極的に宗教改革を推し進めた。
ところがメアリ1世が即位すると、女王はイングランドをカトリックの国家にするためプロテスタントを迫害し、クランマーは火あぶり刑にされました。


エドワード6世Edward VI) 1537-1553 
父の死に伴い9歳で即位しました。伯父のエドワード・シーモアが摂政となってイングランドの事実上の支配者となり、反逆罪で処刑されると、ノーサンバランド公が実権を握り、王に政治教育を行いました。しかしエドワードは病弱で、15歳で亡くなりました。

キャサリン・パーKatharine / Catharine Parr)1512-1548
ジェーン・シーモアの兄トーマスと交際していましたが、宮廷に出入りするうちにヘンリー8世に見初められ、結局1543年に31歳で王と結婚しました。王后となったキャサリンは、当時庶子の身分に落とされていたメアリーとエリザベスの姉妹を宮廷に呼び戻して王位継承権保持者の地位に戻すことを王に嘆願しました。まだ幼いエドワード王子とエリザベスの養育を任されたため、彼らへの教育環境を整えました。
肥満だったうえ、怪我が元でできた脚の腫れ物とひどい頭痛に苦しんで、苛立ち、激怒しやすくなった王をキャサリンが看病しました。1547年、ヘンリー8世は亡くなると、元恋人トーマスと結婚しました。

メアリー1世Mary I of England) 1516-1558
ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの娘として生まれました。37歳で即位。従兄弟のカール5世の息子のスペインのフィリペ皇太子と結婚しましたが、フィリペは挙式後13ヶ月ほどイギリスに滞在し、ベルギーに帰ってしまいました。この時代メアリの名のもと300人近くプロテスタントが火あぶりになりました。メアリ女王はブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)と呼ばれました。1558年メアリは病死します。

エリザベス1世(Elizabeth I) 1533-1603
ヘンリー8世とアン=ブーリンの娘。母は彼女を生んだ後、姦通罪で処刑され庶子として育ちます。姉の死によって25歳で戴冠。宗教問題の解決を進め、国民的な統合を再現して、絶対王政を確立しました。生涯結婚することなく、「私は国家と結婚した」と言って政治に一生を捧げました。

メアリー・ステュアートMary Stuart) 1542-1587
スコットランド王のジェームズ5世とフランス貴族ギーズ公家出身のメアリ・オブ・ギーズの長女。
生後7日で、スコットランド女王メアリー1世として即位(在位1542-1567)フランスで育ち、フランソワ2世と結婚するが夫が病死したので、スコットランドに戻ってきました。2番目の夫の殺人疑惑で廃位ののち国を追われ、イギリスに亡命しました。カトリックのメアリを担ぎ上げようとする陰謀に加担したので、1586年にエリザベスはメアリの処刑を決めました。

エリザベス1世

エリザベス1世

 ロバート・ダッドリー(Robert Dudley) 1533-1588
1533年生まれ。1558年にエリザベスが即位すると、女王の寵愛を受け、やがて女王と愛人関係となり、結婚の噂も立ちます。1564年にはレスター伯爵に叙されるとともにケニルワース城を与えられました。1588年の夏にはスペイン無敵艦隊来襲に備えましたが、海戦直後に体調を悪化させ、同年9月に死去しました。女王は崩御の時まで彼から贈られた最後の手紙を宝物にしていました。女王の寵愛を笠に着て横柄な態度が多かったため女王側近からは嫌われていました。

ウォルター・ローリーSir Walter Raleigh) 1552-1618 
イングランドによる北米植民地の建設は1587年に始まります。ウォルター・ローリー卿は1587年、ロアノーク島に入植地を築き、この地域を女王にちなんでヴァージニアと命名しました。ローリーはアイルランドに初めてじゃがいもを植えたり、英国にタバコをを伝えたと言われています。エリザベス1世が死去すると、ロンドン塔に1616年まで監禁されますが、ギリシャとローマの古代史に関する本「世界の歴史」 を著しました。ロンドン塔から解放されると、南米に黄金郷を探索しに行きましたが、探検の途中、ローリーの部下達が略奪を行います。イングランドに帰還した後、スペイン大使がジェームズ1世にローリーの死刑判決を実行するよう求め、ローリーは1618年ホワイトホール宮殿前で処刑されました。

サー・フランシス・ドレーク(Sir Francis Drake)1543-1598
1577年、ゴールデン・ハインド号で大西洋からマゼラン海峡を経て太平洋に進出し、チリ・ペルー沿岸のスペイン植民地や船を襲って、多大な財宝を奪う。その後、太平洋を横断してさらにインド洋から喜望峰を回って帰国し、マゼランに続く史上二番目の世界一周を達成しました。

1588年のアルマダの海戦ではイギリス艦隊副司令官に叙任され、イングランド艦隊の実質的な指揮をとり、火のついた船を敵艦隊に送り込むという海賊らしい戦法により、スペイン艦隊を壊滅させます。55歳で亡くなった。

フェリペ2世Felipe II)1527-1598
1527年神聖ローマ皇帝カール5世、スペイン王カルロス1世とポルトガル王女イザベルとの間に生まれました。フィリピンは1542年スペイン人のコンキスタドールによってフィリペの名が付けられました。1554年イギリス女王メアリ1世と結婚しますが、1555年フィリペはブリュッセルに出発します。ネーデルランドの統治権、翌年にはスペイン王の称号を受けました。
独身のエリザベスにはフランスやスペインを含む各国からの縁談が舞い込んで来ましたが、結婚の交渉が続けられている間は、いずれもイングランドを敵とは出来ないことを知っていたので、それを外交に利用しました。
スペインは、新大陸の冨を一手に握っていました。イングランドはドレイクなどの私掠艦隊を用いてスペインの制海権を脅かした。1588年、スペインは当時最強を誇った無敵艦隊をイングランドに差し向けますが、イングランド艦隊は無敵艦隊を壊滅させ、スペインを大国としての立場から退場することになります。

2016年12月30日金曜日

ナショナル・ポートレート美術館 (スチュワート王朝時代)

ジェームズ1世(James I)1566-1625
スコットランド女王メアリとヘンリー・スチュアートの長男として、エジンバラ城に生まれました。生後8ヶ月のときに、父が惨殺され、母は首謀者と結婚してイングランドに亡命したので、幼いジェームズはスコットランド国王になりました。23歳の時に、デンマークの王女アンと結婚。隣国のエリザベス1世が亡くなると、37歳でイングランド国王になります。
1605年カトリックのガイ・フォークスが議会に爆発物を仕掛け、国王の暗殺を企てたが、未遂に終わっています。お気に入りのジョージ・ヴィリヤーズをバッキンガム公爵に取り立てました。
1625年病死。

アン・オブ・デンマーク(Anne of Denmark) 1574-1619
父はデンマーク、ノルウェー王のフレデリック2世。1589年にジェームズ1世と結婚しました。ブロンドで美貌の女性でしたが軽薄で浪費癖がありスコットランドの財政を脅かしました。ロンドンへ移ってからはイングランド宮廷の華美な行事や催し物が気に入り、仮面劇をたびたび催し、自分も演じていました。侍女や側近を多数連れての大旅行を好み、保養地バースはお気に入りでした。アンが亡くなると莫大な負債が残され、夫ジェームズは悩まされることになりました。

バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ(George Villiers)1592-1628
ジェームス1世とチャールズ1世の2代にわたって重臣として仕え、官職を歴任しましたが、最後は暗殺されました。

エリザベス・ステュアート(Elizabeth Stuart) 1596-1662
ジェームズ1世と王妃アンの長女。エリザベスが生まれた当時、父ジェームズ6世はイングランド女王エリザベス1世の後継者となることを望み、女王の関心を買うつもりで、長女に女王と同じ名を付けました。
1613年、ボヘミアの選帝侯フリードリッヒ5世と結婚し、宮廷のあったハイデルベルグで暮らします。30年戦争(ボヘミアにおけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、1618から1648まで神聖ローマ帝国内で局所的に起きたプロテスタントとカトリックの戦争)に敗れて王位を逐われ、1622年にオランダに亡命、ハーグで暮らしました。夫に先立たれた後、1661年にイングランドへ帰り、翌年ロンドンで亡くなりました。夫フリードリヒ5世との間には13人の子をもうけた。五女ゾフィーはハノーバー選帝侯エルンスト・アウグストと結婚したが、その息子ゲオルク・ルートヴィヒはエリーザベトの孫であったので、ジョージ1世となりました。

ヘンリー・フレデリック・スチュアート(Henry Frederick Stuart, Prince of Wales)1594-1612
ジェームズ1世とアン王妃の長男。1603年に父がイングランド国王になると1610年にはプリンス・オブ・ウェールズの称号が与えられました。1605年にオックスフォード大学のモードリン・カレッジに入学しましたが、チフスに倒れて18歳の若さで亡くなります。美男子で明るい性格であったと伝えられ、父や弟と違って次期国王としてイングランドを理解する事に務めていたので、もし彼が王位を継承していたならば、その後の議会との全面衝突を回避できたのではないかとする意見もあります。

チャールズ1世Charles I)1600-1649
ジェームズ6世の次男として、スコットランドに生まれました。兄が亡くなったため皇太子になり、
1625年、父の死去に伴い王位を継承します。カトリック信徒のヘンリエッタ・マリアを王妃に迎えたことは反カトリック派の反感を買うことになりました。芸術を愛好し、今日のロイヤル・コレクションの礎を築きました。
チャールズ1世は父王同様に王権神授説を信奉し、議会と対立しました。チャールズは、国教統一に乗り出し、ピューリタンを弾圧すると、各地で反乱が起きました。1640年、、スコットランドの反乱鎮圧のための戦費を得る目的で11年ぶりに議会を招集したが、議会は国王批判の場となりました。1642年、チャールズは反国王派の5人の議員を逮捕しようとして失敗、議会派と王党派の内戦が勃発しました。オリヴァー・クロムウェル率いる議会軍に追い詰められ、1646年チャールズ1世はスコットランド軍に降伏し、囚われの身となりました。一旦は脱出したものの、1648年に再び議会軍に投降して、1649年1月27日、裁判によってチャールズの処刑が宣告され、1月30日、ホワイトホール宮殿前で公開処刑された。

ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(Henrietta Maria of France) 1609-1669
フランス王アンリ4世とマリー・ド・メディチの娘としてルーブル宮殿で生まれました。1625年チャールズ1世と結婚。セント・ジェームズ宮殿内に豪華なカトリックの礼拝堂を設け、国民感情を逆なでしました。

チャールズ2世Charles II)1630-1685
1630年、チャールズ1世とヘンリエッタ・マリアの子として生まれました。革命の危険が高まったため、1646年に母たちとフランスやオランダに亡命しました。1658年にオリヴァー・クロムウェルが死去すると、イングランド議会は王政復古を決議します。
1660年、チャールズ2世として即位し、1662年ポルトガル王女キャサリンと結婚しました。チャールズ2世は女好きで、愛人が14人、認知された庶子が14人いましたが庶子には王位継承権はなく、1685年に亡くなると、弟のジェームズが即位します。


キャサリン・オブ・ブラガンザ(Catherine of Braganza) 1638-1705
1638年、ポルトガルのリスボンで、ポルトガル国王ジョアン4世の次女カタリナとして誕生しました。父ブラガンサ公ジョアンは、1649年にポルトガル国民の圧倒的支持を受けてスペインからの独立を宣言しましたが、スペインとの長期にわたる戦争が始まり、ポルトガル一国では対処できない事態になっていったので、イングランドとの同盟関係の樹立を図るべく1662年に娘をチャールズ2世と結婚させました。この結婚によって北アフリカのタンジールとインドのボンベイが持参金としてイングランドにもたらされ、後年イギリスの海外進出の拠点として重要な位置を占めることとなりました。熱心なカトリックであったキャサリンは、チャールズ2世の戴冠式に出席するのをを拒否しました。貿易先進国として繁栄していたポルトガルの王女だったキャサリンが生活していたサマーセット・ハウスでは、訪問者に紅茶が毎日ふるまわれました。チャールズう2世との間には子供がいませんでした。夫の死後、ポルトガルに帰り67歳の天寿を全うしました。


ヘンリエッタ・アン・ステュアートHenrietta Anne Stuart)1644-1670
チャールズ1世と王妃ヘンリエッタ・マリアの次女として生まれました。5歳の時父王が処刑され、母ヘンリエッタ・マリアは、子供を連れて実家のあるフランスに亡命しました。1660年に兄がチャールズ2世として即位したため、ヘンリエッタはイングランドに帰国します。ヘンリエッタは美しい王女に成長したという評判を聞きつけたルイ13世妃は、ヘンリエッタをぜひ次男フィリップの妻にと申し込み、1661年、ヘンリエッタは母方の従弟に当たるオルレアン公フィリップと結婚しました。
1668年、ルイ14世はイングランドと同盟を結ぶことを決め、ヘンリエッタは密使としてイングランドに向けて旅立ちました。兄チャールズ2世は妹との再会を大変に喜びドーバー秘密条約が結ばれますが、しかし、ヘンリエッタ・アンが帰国した翌月チコリを飲んでいる最中に突然苦しみ出し、そのまま急死してしまいました。毒殺も疑われましたが、死因は重い腹膜炎でした。

ルイーズ・ルネ・ケルアイユ(Louise Renée de Penancoët de Kérouaille) 1649-1734
ルイーズは1649年9月、フランスの貧乏貴族の家に生まれます。両親はルイーズを宮廷女官になるべくしつけ、ルイ14世の寵姫にするつもりでヴェルサイユ宮殿に連れて行きました。しかし、ちょうどその頃ルイ14世は、別の若く美しい侍女に夢中で、ルイーズを弟フィリップの妃ヘンリエッタの侍女にしました。
ルイーズはロンドンを訪れたヘンリエッタに同行し、その時チャールズ2世に見初められました。ヘンリエッタが急死した翌年、ルイーズはルイ14世の命によってチャールズ2世の王妃キャサリン付きの女官としてロンドンの宮廷に送られます。チャールズ2世の宮廷をフランス側に引き込むためである。ルイーズはチャールズの心を捉え、すぐにホワイトホール宮殿に豪華な続き部屋を与えられました。ルイーズはチャールズ2世やジェームス2世をカトリック側に引き付けるのに大きな役割を果たし、チャールズ2世没後はフランスに帰国し、ルイ14世の宮廷から下りる年金で生活しました。

ジェームズ2世(James II )1633-1701
ジェームズ2世はオランダに亡命中に姉のオラニエ公爵夫人の侍女アン・ハイドを見初め結婚しました。2人の間にはメアリ王女とアン王女が生まれます。1671年、アン・ハイドが34歳で亡くなると、ジェームズはカトリックのモデナ公爵の娘メアリと再婚します。 1688年メアリ王妃が男子ジェームズを生むと、議会はカトリックのジェームズ2世を追い出し、ジェームズ2世の長女メアリを王としました。

モンマス公爵ジェームズ・スコット(James Scott, 1st Duke of Monmouth)1649-1685
チャールズ2世と愛妾ルーシー・ウォルターの子として、オランダで生まれました。当時チャールズ2世は亡命中の身で、ルーシーからジェイムズを引き取ることができませんでした。母と死に別れ、14歳のジェイムズはイングランドへ渡り父の元に名乗り出ると、チャールズ2世は早速爵位を与え、自分の子として認知しました。人気があり、次の王位を望む声もありましたが、チャールズ2世は頑としてモンマス公爵を嫡子とすることを拒否しました。
1685年に父が没してヨーク公爵がジェイムズ2世が即位すると、スコットランド貴族と共に反乱を起こしジェイムズ2世の即位阻止に動きますが、捕らえられ処刑されました。
「鉄仮面」は、ジェイムズ2世は甥を刑死させるのに忍びず、彼を死ぬまで監禁させ、顔が知られないよう鉄の仮面を被せ、フランスへ連れて行かれたというストーリーです。

メアリー2世(Mary II)1662‐1694
ジェームズ2世とアン・ハイドの長女。従兄弟のウイリアム3世と結婚が決まった時は嫌で泣き出したと言われていますが、夫婦仲は良かった様です。1688年名誉革命が起こり、カトリックの父王ジェームズ2世はフランスに亡命します。1689年、議会はウイリアムとメアリをイングランド王として迎え、2人は共同統治を始めます。1694年、天然痘のために亡くなります。

ウィリアム3世(William III) 1650‐1702
父はオランダ総督ウィレム2世、母はチャールズ1世の娘メアリ、妻はイングランド女王、スコットランド女王、アイルランド女王メアリ2世。1688年、名誉革命でイギリスに上陸し、義理の父であるジェームズ2世を追い出し、イングランド王位に付きます。子供は無く、妹アン王女にも子供がいなかったため、1701年に「王位を継ぐものはプロテスタントでチューダー王家の血を引くものに限る」とする王位継承令を議会で議決させました。 翌1702年、馬から落ちたことが原因で亡くなります。

アン女王(Anne Stuart) 1665-1714
1665年、ジェームズ2世アン・ハイドの次女として生まれました。姉と一緒にプロテスタントとして育てられましたが、教養があまりなく、読書や芸術よりスポーツや乗馬を好みました。1683年、デンマーク、ノルウェー王の3男のジョージと結婚。夫婦仲はよく、毎年のように妊娠しましたが流産、死産を繰り返しました。
1688年の名誉革命では、姉の夫であるオランダ総督ウイリアム3世がイングランドに上陸。父が追放された後、姉夫婦がメアリー2世・ウィリアム3世として共に即位します。2人に子がなかったので、早くから王位継承者の候補と目されるようになり、ホワイトホール宮殿の一室を与えられ、そこで生活しました。ウイリアム3世が1702年に没すると、アンがイングランド、スコットランド、アイルランドの女王に即位しました。1707年には、イングランド・スコットランドの合同法が成立し、グレートブリテン王国最初の君主となりました。アンには成人した子がいなかったので、即位前から将来の王の後継者は問題でした。アンにはフランスに亡命した異母弟ジェームズがいましたがカトリック信者であり、プロテスタント中心の議会勢力は即位を望みませんでした。そこで、ステュアート家の血を引きプロテスタントであるハノーバー選帝侯妃ゾフィーの子孫が継承者となるべきことを定めた王位継承法が議会で制定されれました。アンは1714年に病死しました。

サラ・チャーチル(Sarah Churchill)1660-1774
サラ・ジェニングスは少女時代からアン女王の親しい友人でした。サラは軍人ジョン・チャーチルと結婚した後もアン女王に仕えました。


マールバラ公爵、ジョン・チャーチル(John Churchill,  Duke of Marlborough) 1650-1722
アン女王が即位した時、スペイン継承戦争が本格化し、イングランドはオランダと共にオーストリアと同盟して、フランスおよびスペインと戦うことになりました。アンは友人サラの夫マールバラ伯をイングランド軍総司令官に任命し、1704年、マールバラ公は南ドイツで行われたブレンハイムの戦いでフランス軍を破る大戦果をあげ、フランドルでも戦勝を重ねました。スペインとの戦いでは、イギリス艦隊がジブラルタルを陥落させ、複数の海外領土を獲得しました。ジョン・チャーチルはフランス軍を破った報償としてウッドストック村に広大な地所を与えられ、ブレナム宮殿を建設します。

サー・アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton)1642-1727
イングランドのリンカーンシャー州の農家に生まれました。1661年にケンブリッジ大学に入学しましたが、1665年ペストの流行で大学が一時休校となり、ニュートンはリンカーンシャーの実家に戻って2年間を過しました。落ちるリンゴを見て万有引力がひらめいたのはこの時です。1667年にケンブリッジに戻り、1696年まで数学教授などを歴任しました。数学では微分積分学にも取り組み、光学にも関心を持っていたニュートンは、白色光は虹を構成するすべての光の色の混合色であるという説を発表しました。ニュートンはガラスのレンズに鏡を組み合わせた望遠鏡を設計し、それまでの望遠鏡よりも鮮明で正確な像を得ることができるようになりました。 晩年は造幣局長官、下院議員を務め、王立協会の会長などを歴任しました。84年の生涯を閉じ、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。

 
ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)1667-1745
アイルランド人の風刺作家で著名な作品にガリヴァー旅行記があります。アイルランドの10ポンド紙幣に肖像が使用されていた。

キット・カット・クラブ会員の肖像画
18世紀、ロンドンにホイッグ党員たちが集まる「Kit-Cat Club」という政治社交クラブがありました。第一回の会合がクリストファー・カット(Christopher Catt)という人物が経営していたタバーンで開催され、経営者の名前(当時クリストファーの愛称はキットであった)から「キット・カット」と呼ばれるようになった羊肉のパイを食べながら話を進めたので、キット・カット・クラブになりました。ゴッドフリー・ネラーによるクラブ党員の肖像画は、切り取られて通常より縦の寸法が短くなっています。有名なチョコレートはその切り取られた肖像画と形状が似ていることから、名づけられたと言われています。

ウィリアム・ホガース(William Hogarth) 1697-1764
ロココ時代のイギリス画壇を代表する国民的画家。

アントニオ・ヴェリオ(Antonio Verrio)1640-1707
チャールズ2世の命でウインザー城の壁画、天井画を描くためにロンドンに招かれました。ウイリアム3世にハンプトンコートの装飾も任されました。

 サー・ゴドフリー・ネラーSir Godfrey Kneller)1646-1723
17世紀後半から18世紀前半にイギリスで活躍した肖像画家でチャールズ2世やジョージ1世の宮廷画家として仕えました。

 ウイリアム・ケント(William Kent)1685-1748
造園家、建築家、画家、家具設計家。風景式庭園を創造し、カントリーハウスの景観を設計しました。

2016年12月29日木曜日

ナショナル・ポートレート美術館 (ハノーバー朝時代)

ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(James Francis Edward Stuart)1688-1766
ジェームズ2世と2番目の妻メアリ・オブ・モデナの間に生まれましたが、父王のジェームズ2世が親カトリック政治を行なって議会との対立を深めたため、名誉革命が勃発しました。オランダ軍のイングランド上陸から数週間でジェームズは母に連れられてフランスへ避難し、父もウィレム3世によって廃位されてフランスへ亡命しました。ジェームズはフランスで育てられ、ルイ14世によってイングランドとスコットランドの正統な王位継承者と認められました。1701年に亡命中の父が死去したためジェームズは王位を継承し、ジャコバイトたちの中心人物となります。もし彼がカトリックからプロテスタントに改宗すれば、異母姉アンの死後に王位を継承することができましたが、改宗を拒否しました。1714年にはスペイン王位継承戦争でフランスがイングランドに敗れ、ルイ14世は講和を余儀なくされると、ジェームズはフランスから追放され、支援を断たれました。ジェームズは1766年ローマで死去し、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂に葬られました。

チャールズ・エドワード・ステュアート(Charles Edward Stuart)1720-1788
ジェームズ2世の孫、チャールズはローマで生まれました。教皇の庇護をうけ、少年時代をイタリアで過ごした。ジャコバイトの多いスコットランドではチャールズの人気が根強く、「ボニー・プリンス・チャーリー」と呼ばれて愛されていました。1745年のジャコバイト蜂起でチャールズは念願のブリテン上陸をはたし、政府軍を破りましたが、カロデンの戦いでカンバーランド公ウイリアムに惨敗し、変装して大陸に逃げ帰ります。その後、チャールズのイタリアでの淫蕩生活やカトリック信仰へのこだわりから、以前の熱狂的な人気は色褪せて、チャールズはそのままローマで亡くなります。

フローラ・マクドナルド 1722-1790
ボニー・プリンス・チャーリーとして知られるチャールズ・エドワード・スチュアートが、ジャコバイトの敗北のあとにアイルランド人女中に扮装してフランスへ逃亡するのを助けたのがフローラです。彼らが別れる時に、王子はフローラに彼の肖像画が入ったロケットを渡して「セント・ジェームズ宮殿で会えるといいですね。」と言いましたが、彼女は二度と彼に会うことはありませんでした。彼らのロマンティックな冒険はハイランドの歌と伝説に残っています。

ジョージ1世(George I)1660-1727
イギリス王ジョージ1世となるゲオルク・ルートヴィヒは1660年、ハノーバー選帝侯エルンスト・アウグストとその妃ゾフィーの長男としてハノーバーで生まれました。
カリックの国王を望まないイングランド議会は、ステュ アート家の血を引き、かつプロテスタントであるゾフィーの子孫のみが国王となることができるとする王位継承法を制定したため、規定に従ってゾフィーの長男である54歳のゲオルクがイギリス王ジョージ1世として即位しました。
ジョー ジ1世はほとんど英語を話さず、イギリスの国内政治にはさほど興味を持たず ドイツ滞在が多かったため、内閣に政務の一切を委ねるようになり、内閣は国王にではなく議会に責任を負うこととなりました。1727年、ジョージ1世は、ハノーファーで亡くなります。


ロバート・ウォルポール(Robert Walpole)1676-1745
最初のイギリス首相。英語が分からないジョージ1世に代わり、ウォルポールが平和外交政策をとり続けたので、イギリス平穏な日々が続き「君臨すれども統治せず」という立法君主制が確立されます。巧みな政治手腕で議会を掌握し続け、20年に及ぶ長期安定政権を築いてイギリスが国家として躍進する土台を築きました。ウォルポールにはダウニング街10番地の邸宅を与えられ、以後歴代のイギリス首相はここに住み続けることになります。

ジョージ2世(George II)1683-1760
ハノーバーで生まれ、10歳の時、父王と母ゾフィーは離婚、城に幽閉され、ジョージは生涯母と会うことは許されなかったので、父を憎むようになり終生不仲は続きました。22歳の時、キャロラインと結婚しました。1727年、父の死去によりイギリス王ジョージ2世、及びハノーファー選帝侯ゲオルク2世アウグストとして王位と選帝侯位を継承しました。
1743年、ヘンデルの『メサイヤ』が初めてロンドンで演奏された際(初演は1742年、アイルランドのダブリン)、最後の「ハレルヤ・コーラス」の途中で感動して起立したという逸話があり、今日の演奏会でも聴衆が「ハレルヤ・コーラス」の部分で立ち上がるのもこのジョージ2世の逸話に端を発しています。アメリカのジョージア州はジョージ2世にちなんで名づけられたものです。

キャロライン・オブ・アーンズバック(Caroline of Ansbach)1683-1737
1705年にハノーバー選帝侯世子ゲオルクと結婚。1727年に夫がジョージ2世として即位します。ヘルニアの手術の失敗のため54歳で死去するまで、ジョージ2世との関係は良好でした。
死期を悟ったキャロラインは、自分を見舞うジョージ2世に対し、自分が死んだら再婚して欲しいと言ったら、ジョージ2世は『愛人はつくるが、再婚はしない。』と宣言しました。キャロラインはウエストミンスター寺院に埋葬され、ジョージ2世は23年後に亡くなるまで、「宣言」を守り、愛人は作ったが、再婚しませんでした。王の遺言に従い、王は王妃の棺と並びあう王の棺の横板と、王妃の棺の横板を外させた上で埋葬されました。

フレデリック皇太子(Frederick Louis)1707-1751
1714年に祖父がジョージ1世としてイギリス国王に即位すると、母は妹3人を連れてロンドンに移住しましたが、7歳の長男フレデリックはハノーバーへ残されました。ジャコバイトによる暴動・襲撃を警戒しての措置であったといいます。1751年、48歳のフレデリックはクリケットのボールで頭を打たれて亡くなりました。 妻のオーガスタはキューガーデンを作りました。

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel)1685-1759
1685年、ドイツに生まれ。厳格な父の期待に従い、ハレ大学で法律を学びましたが、音楽への情熱を断ち切れずハンブルグへ出てオペラで成功しました。1706年からはイタリアの各地を巡り、イタリア・オペラに接してそれを吸収しました。1710年にハノーバー選帝侯の宮廷楽長となりましたが、宮廷楽長の地位はそのままに1712年にはロンドンに移住してしまいます。1714年、ハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として迎えられることになり、「水上の音楽」や「花火の音楽」を作曲しました。1727年には正式に帰化しました1751年に左眼の視力を失い、間もなく右眼の視力も悪化し、1752年に完全に失明しましたが、演奏活動だけは続けていました。74歳で死去。


サー・ジョゼフ・バンクス(Sir Joseph Banks)1743-1820

バンクスは、王立協会と王立海軍が計画した(ジェームズ・クックによる太平洋探検の第一回航海である)エンデバー号による南太平洋探検航海に、科学班の一員として参加しました。
エ ンデバー号は、まずブラジルに向かい、タヒチ、ニュージーランドを経由してオーストラリア東岸に到達しました。バンクスらは珍しい植物標本を採集し、ユーカリ、アカシア、ミモザを西欧にはじめて紹介しました。帰国後、ロンドンに身を落ち着けたバンクスは、太平洋航海で収集した膨大な植物・動物標本に加え、描かれた約1500枚の絵を元に、『植物図譜』の制作に取りかかりました。1778年に王立協会の会長に選出されると、その後41年間、死ぬまで会長職を続けました。バンクスは世界各地に探検家と植物学者を派遣して植物を収集し、キューガーデンを世界屈指の植物園に育て上げます。77歳で亡くなりました。


エドモンド・ハレー(Edmond Halley)1656-1742
ロンドンの裕福な石鹸製造業者の子供として生まれた。オックスフォード大学のクイーンズ・カレッジを卒業、結婚し、ロンドンに住みました。この時期ハレーはほとんどの時間を月の観測に費やしていました。ハレーは英国海軍のパラモア号の艦長に任命され、広範囲の地磁気観測を行ないました。1720年にグリニッジ天文台長となり、死ぬまでその職にありました。ハレーは著書で、1456年、1531年、1607年、1682年に現れた彗星は同一の天体であり、次は1758年に 回帰することを予言しました。ハレー自身はこの彗星を見ることなく85歳で亡くなりました。この彗星はハレー彗星 (Halley's Comet) と呼ばれることになりました。

ジェームズ・ワット (James Watt )1736-1819
イギリスの産業革命はスコットランドのエンジニアであるワットによって始まりました。ワットはニューコメン機関の模型の修理を行った際、改良に着手し熱効率の改善とピストンの上下運動を回転運動に変えました。動力に割ったが発明した蒸気機関が利用されることで飛躍的に生産量を伸ばしました。資本家は機械性の大工場経営に乗り出し、機械工業、製鉄業なども発展を遂げ、イギリスは世界の工場となりました。

マシュー・ボールトン (Matthew Boulton)1728-1809
18世紀の後半、ワットと共同でボートン・アンド・ワット蒸気機関を何千基も据えつけて、工場や製粉所、製糸場の製造技術向上に貢献しました。ワットと共に50ポンド札の顔です。


ジョージ3世(George III)1738-1820 「農夫王」(Farmer King
22歳の時、祖父ジョージ2世のあとを継ぎ即位しました。翌年、シャーロットと結婚。他の王のように愛人を持つこともなく、生涯王妃を大切にしました。ジョージ3世の統治の間にアメリカ独立、フランス革命などがあり、精神の病気にかかりました。1811年から長男ジョージが摂政となります。82歳で亡くなります。

シャーロット妃(Sophia Charlotte of Mecklenburg-Strelitz)1744-1818
1761年にジョージ3世と結婚。家庭生活は円満で、9男6女の母となり、夫の女性関係では苦労することも全くありませんでした。たびたび精神異常を引き起こした夫を献身的に介護し、ウインザー城で共に暮らしました。キューガーデンの設立にも協力したり、ウエッジウッドを購入し、「クイーンズウェア」の称号を許可しています。1818年ウィンザー城内のセント・ジョージズ・チャペルに埋葬されました。

ジェームス・クック船長 Captain James Cook 1728-1779
ヨークシャーで農場労働者の子として生まれたクックは初歩的な学校教育を受けただけで、父を助けて働きました。18才の時見習い水夫となり航海術を身につけ、26才で正式に海軍軍人になりました。



キャップテン・クックの探検航海:
第1回(1768~1771):~:(西回り世界一周航海)
プリマス出帆~ホーン岬~タヒチ島~ニュージーランド~オーストラリア~トレス海峡~
バタビア~インド洋~喜望峰~ダウンズ(ドーバー)港に到着

第2回(1772~1775):~:(東回り世界一周航海、南極圏を一周航海)
プリマス出帆~喜望峰~南極海~3度の南極圏突入~ニュージーランド~太平洋~
フェゴ島~サウスジョージア島~喜望峰~スピットヘッド(ポーツマス)に到着

第3回(1776~1779):~:(ハワイ諸島発見、北極海探検航海)
プリマス出帆~喜望峰~ケルゲレン諸島~タスマニア島~ニュージーランド~
太平洋~北極海~ハワイ島ケアラクワにて戦死



ジョージ4世(George IV,)1762-1830
ジョージ3世が病気のため、1811年から1820年(ナポレオン戦争の時期)、摂政を務めました。皇太子時代の素行は非常に悪く、王室費の半分に相当する額と同じ金額の借金をこしらえ、父の精神障害の原因とさえも言われました。58歳で即位。妃のキャロラインを嫌い、戴冠式から王妃を締め出しました。

ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson)1758-1805
ナポレオンによる英本土侵攻を阻止しましたが、自身はトラファルガーの海戦で深い傷を負い戦死しました。イギリスの英雄。

ウエリントン公爵アーサー・ウェルズリー(Duke of Wellington) 1769-1852
ナポレオン戦争で軍功を重ね、最終的に1815年のワーテルローの戦いではナポレオン打ち破った軍人です。保守党の政治家としても活躍し、二度にわたって首相を務めました。

ジョージ4世George IV,)1762-1830

マリア・フィツハーバート(Maria Anne Fitzherbert) 1756~1837
ハンプシャーで生まれてパリで教育を受けたマリアは23歳で未亡人になりました。28歳でジョージ皇太子と恋人関係になり、29歳でこっそり結婚したと言われています。国教会の牧師もいたし、立会人も2人いて手続きには問題ありませんでしたが、父王の承認を得ていなかったので違法とされて、結婚は成立しませんでした。ジョージは40万ポンドに膨らんだ借金をチャラにするため、ちゃんとした結婚をすることにしました。1794年に結婚するためにマリアと別れ、キャロラインと政略結婚しますが、早々に妃に嫌気がさしてマリアのもとへ帰ってきました。1837年にフィッツハーバード夫人として亡くなり、ブライトンに葬られました。

キャロライン・ブランズウィック(Caroline of Brunswick)1768-1821
ジョージは、フィッツハーバート夫人を何としても手に入れようと、教会で結婚式をしていました。困り果てた父ジョージ3世は、正式な結婚を皇太子に迫り、それを条件に借金の棒引きを持ちかけました。ジョージは肖像画でその美貌が謳われていたキャロラインを選び、政略結婚となりました。 1795年ロンドンに到着したキャロラインと面会したジョージは、彼女の強烈な体臭に面食らい、キャロラインのほうもジョージの異常な肥満体に失望しました。3日後、セント・ジェームズ宮殿で挙式が行われましたが、ジョージは酔っぱらい、弟たちに左右を支えられて立っている有様でした。シャーロット王女が生まれて間もなく2人は別居し、ジョージは愛人フィッツハーバート夫人と再び同棲を始めました。シャーロット王女は王家が養育することになり、キャロラインから引き離されました。娘と会うのをジョージに妨害され、孤独の生活に追いやられたキャロラインは、1813年から大陸諸国への旅行を許され、旅から旅の生活が始まった。1821年死去。遺言でウインザーに眠るシャーロット王女のそばに埋葬されることを望みましたが、それも拒否され、故国のドイツに葬られました。

シャーロット王女(Charlotte)1796-1817
ジョージ4世とキャロライン王妃との間に唯一の王女。シャーロットは1816年、後にベルギー国王ととなるザクセン公子レオポルトと結婚したが、翌1817年に男子を死産して間もなく死去しました。

ウィリアム4世(William IV)1765-1837
青年時代は海軍に勤務していたため、Sailor King の愛称で親しまれました。
女優として活躍していたドロシー・ジョーダンと20年夫婦同様に生活し、10人の庶子を儲けました。王家の跡継ぎをつくるため1818年、ザクセン公の娘アーデルハイトと結婚しましたが子供は夭折しました。65歳で即位。高齢の国王は、海軍時代に市内を自由に歩き回ったのと同じように、侍従も連れずに気軽に市中へ出かける習慣を止めませんでした。治世中、児童労働の制限と奴隷労働の廃止などが議会で可決されました。1837年死去。イギリス王位は姪のヴィクトリアが、ハノーファー王位は弟のエルンスト・アウグストが継ぎました。

ドロシー・ジョーダン(Dorothy Jordan)1761-1816
アイルランド人の女優で、「ミセス・ジョーダン」の芸名で有名になりました。1780年代後半からウィリアムと同棲を始めますが、同棲後も彼女は女優として舞台に立ち続けました。ウィリアムとの間に10人もの子供を生み、彼らにはフィッツクラレンス(FitzClarence:「クラレンスの子」の意味)の姓が与えられました。
1811年、ウィリアムはザクセン=マイニンゲン公女アーデルハイトと正式に結婚することになり、ドロシーとの関係を解消しました。ドロシーは舞台に立たないという条件でウィリアムから年金を受け取りますが、1814年に娘(ウィリアムの娘ではない)の夫が借金を返せず、ドロシーはその肩代わりのために再び舞台に立ちました。ウィリアムは直ちに庶子たちを引き取り、ドロシーへの年金の支払いを中止しました。1815年、ドロシーは借金取りから逃れるためにフランスに渡り、翌年パリ近郊のサン=クレーで貧窮して亡りました

ジョージ・スチーブンソン(George Stephenson)1781-1848
蒸気機関を輸送車両の動力に利用するというアイデアに多くの人々が挑戦しました。1804年トレヴィシックはワットの蒸気機関の小型化、高圧化に成功し、軌道を走る蒸気機関車を開発しました。これに触発されたスティーブンソンは1814年に蒸気機関車ブリュッヘル号を完成させました。実用化のために機関車を改良し、1825年ロコモーション号を開発し、鉄道網は距離を延ばしていきました。スチーブンソンは「鉄道の父」と呼ばれており、立身出世の代表例とされました。彼が採用したゲージ(1,435 mm)は世界中の鉄道の標準となっています。

エドワード・ジェンナー(Edward Jenner)1749-1823
ジェンナーが医師として活動していた頃には、牛の乳搾りなどをして牛と接することによって自然に牛痘に かかった人間は、その後天然痘にかからないという農民の言い伝えがありました。ジェンナーはこれが天然痘の予防に使えないかと、18年にわたって研究を続 け 1796年ジェンナーの使用人の子である8歳の少年に牛痘を接種しました。少年は若干の発熱と不快感を訴えたがその程度にとどまり、深刻な症状はあり ませんでした。6週間後にジェンナーは少年に天然痘 を接種しましたが少年は天然痘にはかからず、牛痘による天然痘予防法が成功しました。その後の天然痘の大流行を機にジェンナーの種痘法は急速に普及し、彼 は「近代免疫学の父」と呼ば れるようになります。その後天然痘ワクチンは改良されて世界で使われ、1980年には天然痘の根絶が宣言されました。