2011年9月30日金曜日

シェークスピアの家とナッシュの家とニュープレイス

「ベニスの商人」「ロミオとジュリエット」「ハムレット」「マクベス」などの作品で有名なシェークスピアは、1564年にこの家で生まれました。

父親のジョンは手袋製造職人でしたので、当時の工房が再現されています。

こちらはナッシュの家です。トーマス・ナッシュは1626年にシェークスピアの孫であるエリザベス・ホールと結婚しました。

隣のニュー・プレイスは、シェークスピアが33歳のときに買った家があった場所で、引退後はここに住み、この家で亡くなりました。

家は1702年ごろ取り壊され、現在はエリザベス王朝風のノット・ガーデンになっています。

庭からギルド・チャペルが見えます。この景色はシェークスピアが家や庭から眺めたのとほとんど変わっていません。

ノット・ガーデンはいつも花盛り~。ストラットフォードにいらっしゃったら、是非「ナッシュの家とニュー・プレイス」にも足を運んでみてください。

2011年9月29日木曜日

ストラットフォードのクリスマス・ショップ

シェークスピアの家の前にある

一年中クリスマス・ショップ。

今年のクリスマスまで、たった101日?どんだけクリスマスが好きなのか?

外はまだ暑いんですけどね・・・。

2011年9月28日水曜日

ウエッジウッドの工房

ウエッジウッドのビジターセンターに行ってきました。

ジョシュア・ウエッジウッドは1730年に窯元の13人兄弟の末子として生まれました。9歳で父が亡くなり、兄の工場を手伝います。11歳のときに、天然痘にかかり、右足が不自由になります。28歳のときに、アイビーハウス工房(Ivy House Works)を借り受け、独立しました。33歳のころ、 硬質陶器クリームウェアが完成。のちに、シャーロット王妃によって王室御用達の陶工に認められ、「クィーンズウェア」と命名することを許されます。34歳でサラと結婚。38歳のころ、右足が悪化し膝下を切断します。41歳で 工房をエトルリアへ移します。42歳のころ、ロシアのエカテリーナ女帝からフロッグウエアの注文がきました。44歳でジャスパーウエアを完成。窯の中の高温を測るパイロメーターを発明したことにより、54歳のときに科学者として王立協会会員に選ばれました。56歳からポートランドの壷を借りて、再現に取り組み、60歳で成功。64歳で亡くなります。

工房では、轆轤で陶器を形成しているところを見ることができます。

あ、電動轆轤だ。マイセン工房では足で蹴っていたのに~。

絵付けも見られます。

一日中、同じ絵を描いているのでしょうか?

こちらは色付け。何回も重ねて色を付けます。

こちらはプリントされたものを貼る作業です。

焼くと、このようになりますと、説明してくれているところ。

廊下に完成品が並べてありました。

こちらは模様の型をとっているところです。

ジャスパーを、

ペンダント型に嵌め込む作業。

ジャスパーの種類の見本。

ウエッジウッドは優れた実業家でした。高温測定の温度計の発明や、原料の粘土の科学的研究は、王立協会に報告され、協会から本として出版されました。運河を整備し、工場では、品質管理、専業化など合理化を進め、従業員の福祉・健康管理にも気を配っていました。

2011年9月27日火曜日

ハワース

ハワースの街のバス駐車場に到着すると、ブロンテ姉妹が眠る教会が見えます。

「ジェーンエア」「嵐が丘」で有名なブロンテ姉妹はヨークシャーの丘陵地帯のハワースの牧師館で育ちました。

幼い時に母親が病気で亡くなり、もともと社交的でない父親は一日の大半を書斎で過ごし、家政と育児を引き受けた伯母も石畳の冷たい居間を嫌って2階の自室に上がったきりほとんど降りてきません。

子供たちは近所の子供と遊ぶことさえ頑固な父に禁止され、自分たちだけの小さな閉鎖社会を作りました。夏は村はずれの広い荒野で遊べるけど、冬は冷たい薄暗い家の中にいるしかありません。他に面白い遊びもないので、幼い子供たちは空想の物語を聞いたり、聞かせたりするようになりました。父の宗教談や政治論、伯母の思い出話、父の書斎にあるスコット、ワーズワース、バイロン、シェークスピアなども読む端から物語に取り入れていきました。

父と3人の娘たちはひとり息子ブランウェルが画家になろうとする希望に協力しましたが、彼は世に認められぬうちに酒に身を持ち崩して、31歳の若さで死んでしまいます。

彼が死ぬ直前まで足繁く通ったパブ、ブラック・ブルには彼が描いた3人姉妹の絵がありました。

シャーロットが書いた「ジェーン・エア」が1847年10月に刊行されベストセラーになり、そのおかげで2ヵ月後にエミリーの「嵐が丘」とアンの「アグネス・グレイ」も出版することができました。しかし「嵐が丘」の評判はあまり良くなく、傑作と言われるようになるのは、エミリーの死後50年経ってからです。

小説出版の1年後に、エミリーは薬も受け付けず、医者も拒み、衰弱して30歳の若さで死んでいきました。次の年にはアンが29歳で療養先で亡くなります。残されたシャーロットも39歳で亡くなります。

ブロンテ姉妹は短命と言われていますが、実はハワースでは長生きした方なのです。

当時は食糧事情も悪く、衛生環境もかなり悪かったので、ハワース村の平均寿命は24.6歳でした。子供の半分は幼児(6歳未満)で死んでいったのでした。

ハワース村の周りのヒースの荒野に風力発電のための風車がありました。ヨークシャーでは結構風車を見かけました。