2017年12月17日日曜日

モネと白内障

新聞にモネの絵のスタイルは白内障に影響されたという内容の記事が載っていました。コンピューターを使って、白内障の人の目から見た風景まで出ていて面白かったのですが、目の病気がモネの画風と関係があるというのはどうかなと思いました。


モネは印象派の代表的な画家です。印象派の画家の多くは、輪郭線でしっかり形をとることには興味がありませんでした。モネは光の効果によって、どのように水や空気や木の見え方が変化していくのかをずっと研究していました。光の印象をそのまま描くために考えたのが、分割筆触という点描の技法でした。純色の点々を画面に並べて、それを離れてみると色同士が混ざり合って別の色に見えるのを利用したのです。

ですから、別に目が悪くなくても、モネの画風は変わらなかったと、私は思うのですが・・・。

2017年12月16日土曜日

モネとルノアール


これはロンドン・ナショナル・ギャラリーにある
モネの「ラ・グルヌイエール」。

これはストックホルム国立美術館にあるルノワールの「ラ・グルヌイエール」。

そしてこれはニューヨークのメトロポリタン美術館にあるモネの「ラ・グルヌイエール」です。ルノワールとモネは1969年に一緒にカンヴァスを並べて水辺の行楽地であるラ・グルヌイエールの絵を何枚も描きました。

これはルノワールが描いたアルジャントゥイユのヨットの絵。

そして、 こちらはモネが描いたアルジャントゥイユのヨットの絵です。そっくりですよね~。

アルジャントゥイユはモネが1970年代に住んでいたセーヌ川畔の村で、ルノワールやマネもよく訪れて、絵を描きました。この絵はルノワールによるアジャントゥイユの庭のモネ夫人カミーユと息子ジャンです。

こちらはマネによる「庭のモネ一家」。同じ日、同じ時、同じ場所で描いたことがわかりますね~。マネはモネやルノワールの苦しい時期には金銭的な援助をしていました。

2017年12月15日金曜日

ルノアール

ルノワールは1841年リモージュの職人の家に生まれました。
3歳でパリに移住、13歳のときに陶磁器工場の絵付け職人になります。ルーヴル美術館に通って古代の彫刻などのデッサンに励みました。そして、ヴァトー、ブーシェ、ドラクロワなどの色彩豊かでドラマチックなフランス絵画に憧れていました。

21歳でグレールの画塾に入り、モネやシスレーと知り合い、一緒に写生へ出かけたりしました。絵の具も買えない貧乏でしたが、経済的にはシスレーやバジールが、精神的にはモネが支えてくれました。33歳のとき、風景画や写実画を低級な絵画だと決めるけるサロンの審査に反発して、印象派展に参加します。が、光と自然にこだわるモネとは違い、人間を描くのに興味があったルノワールは次第に印象派から離れていきます。

38歳のときに描いた「シャルパンティエ夫人と子供たち」がサロンに入選し、名声を得ます。その後、肖像画の依頼が殺到するようになり、生活は安定しました。40歳のとき、アルジェリアとイタリアに旅行。41歳でアリーヌと生涯を共にすることを決意、44歳で父になります。

その後ルノワールの作品は高い評価を得て、富と名声が手に入りましたが、ルノワールは簡素な部屋で創作を続けます。56歳のときにリューマチにかかり、病気療養と創作活動のため、南フランスに移住します。手は硬く曲がり、自由に絵筆をつかむことができない状態でも、絵筆を指に縛り付けてもらい制作を続けます。78歳で肺炎で亡くなる日の朝も、アネモネの花の絵を描きました。

2017年12月14日木曜日

ルノアールの友達


この絵はルノアールの自画像です。陶器の絵付師を経て、20歳の時に本格的な画家を目指して、グレールのアトリエに入門したルノアールは、アトリエでモネ、シスレー、バジールに出会います。彼らは制作もプライベートも共にする生涯の友人になります。

シスレーは裕福なイギリス人の商人の子としてパリで生まれました。風景を愛した画家で、フォンテーヌブローの森近くに住んで、その近郊の風景を描き続けました。貧乏なルノワールを自分のアパートに同居させたりもしました。

バジールも裕福な家庭に育ち、自分のアトリエを持っていました。サロンにも入選しています。シスレーが結婚した後は、ルノワールとマネは彼のアトリエに住ませてもらっています。しかし、普仏戦争に志願し、29歳の若さで戦死してしまいます。

モネは一緒にカンヴァスを並べて絵を描いた友人であり、よきライバルでした。二人の友情は生涯にわたって続きました。

人間嫌いのセザンヌとも交流がありました。ルノアールは南仏にセザンヌを訪ね、仲良くカンヴァスを並べてサント・ヴィクトワール山を写生したこともありました。

2017年12月13日水曜日

マネ


マ ネは1832年に司法省の高級官僚の長男として、パリの高級住宅地で生まれ、裕福な家庭で育ちました。勉強は嫌いでしたが、デッサンには才能があり、模写 するためにルーヴル美術館へ通い始め、画家になる夢をもっていました。18歳のとき、長男は弁護士にと決めていた父親を説得して、クチュールの画塾へ入学 しました。そのころマネはピアノ教師であるオランダ人のシュザンヌと恋に落ち、20歳のときに長男レオンが生まれます。21歳でイタリア旅行をし、24歳 でオランダ、ドイツ、オーストリア、そしてもう一度イタリアに旅行して美術館を訪ねたり、スケッチをしたりしています。

31歳のとき「草上の昼食」をサロンに出して落選しましたが、代わりに新しく設立された落選者展に展示されました。スーツ姿の男性に混じって平然と草の上に腰を下ろす裸婦をわいせつだと評価されました。

33歳のときに出品した「オランピア」はサロンで入選したものの、古典的なヴィーナスを装っている裸の娼婦だと非難をあびました。

仕事の上では苦闘の日々が続きましたが、父親の死によって遺産が入り、シュザンヌと結婚するも自由も手に入りました。スペインに旅行して、ベラスケスやゴヤの影響を受けたのもこの頃です。

ダンディな紳士であったマネの周辺は、友人や美しい女性に取り巻かれ、いつもにぎやかでした。お気に入りのモデルであった女流画家を描いた「黒い帽子のベルト・モリゾ」や、

女弟子の「エヴァ・ゴンザレスの肖像」がサロンに入選し、人々はマネの作品を受け入れ始めていました。

マ ネは革命的な画家に見えながら、アカデミックな伝統の世界での成功と名誉と追い求めました。印象派のグループの中心にいながら、印象派展へは一度も参加し ませんでした。現代生活を描きながら、古典の巨匠たちに対する尊敬の念は誰よりも深かったようです。壊疽にかかり、1883年、51歳の生涯を閉じます。

2017年12月12日火曜日

マネが真似した絵


オルセー美術館にあるマネの「オランピア」は、

ウフィツィ美術館にあるティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」を参考にしていますし、

オルセー美術館にあるマネの「草上の昼食」は、

ルーブル美術館にあるジョルジョーネの「田園の奏楽」を参考にしています。




マキシミリアンはオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝のフランツ・ヨーゼフの弟です。1864年、メキシコの内政干渉に乗り出したナポレオン3世によって、メキシコに帝国を樹立させ、その皇帝にマキシミリアン大公を据えたのでした。しかし間もなく革命が起こり、フランス軍は1867年3月12日メキシコからの撤退してしまいます。しかしマキシミリアンはフランス軍と共にヨーロッパへ帰ることを拒み、革命軍に捕らえられ1867年6月19日に銃殺されてしまいました。在位わずか3年でした。この絵はフランスでニュースを聞いたマネが同じ年に描いた「皇帝マキシミリアンの処刑」です


ゴヤの「プリンシペ・ピオの丘での銃殺」。ゴヤの絵は1808年5月3日にナポレオン軍によって処刑されるスペイン市民です。マネは若い時にスペインを旅行しており、プラド美術館でこの絵を見ているので、処刑シーンを描く時に参考にしたと考えられます。


ロンドン・ナショナル・ギャラリーにあるマネの「マキシミリアンの処刑」。

この絵が破損しているのは、作者のマネ本人が自分自身の手で絵をいくつもの部分にバラバラに切りはなしてしまい、後に友人の画家のドガが集めて貼り合わせたものだからです。


マネは「マキシミリアンの処刑」を全部で5枚描きました。

2017年12月11日月曜日

19世紀の女流画家たち


ナショナル・ギャラリーにあるモリゾの「夏の日」。
ブローニュの森で2人の女性がボートに乗って涼しい風を味わっている風景ですが、当時は夏であっても良家の女性は肌を露にしてはなりませんでした。両親や夫の理解があり画家の道に進むことができたモリゾですが、19世紀の女性がプロとして活動するにはさまざまな制約がありました。ブルジョアの女性は付添人なしで公の場所に出かけることができなかったので、男性画家のように街の様子を描くことはできませんでした。

マネが描いた「エヴァ・ゴンザレス」。マネの弟子だったゴンザレスはモデルも務めました。当時の美術学校は女性の入学を許していませんでしたし、たとえ画家になれたとしても男性画家と対等に活躍することはできませんでした。彼女らの場合、印象派グループにいたので活動の場を確保することができ、オルセー美術館などに作品が残る画家になれたのだと思います。

2017年12月10日日曜日

ピサロ


1830 年カリブ海のセント・トマス島の裕福な商人の家に生まれます。
12歳のときパリの寄宿学校に入学。卒業して島に戻りますが、画家に憧れ25歳のときにパリ で本格的に絵画の勉強を始めます。風景画家を志していたピサロはコローの作品に魅せられ、コローの元を訪れながら助言を受けていました。

モ ネ、セザンヌ、ルノワール、シスレーと出会い、カフェにたむろし、毎夜のように芸術論を語り合いました。意見の相違をまとめ、なだめるのも年長者だったピ サロでした。1874年に始まった印象派展は、回を重ねるごとに参加者は変わって行きましたが、8回全部参加したのはピサロだけでした。参加を迷っていた セザンヌを説得し、株式仲買人であったゴーギャンを見出して参加を要請したりしたのもピサロでした。

ル ノワールやモネが次第に評価され始め、高額で作品が売れていったのに対し、50歳のピサロは依然としてほとんど作品が売れず、貧困の中にいました。白内障 に悩まされながら、パリ郊外の牧歌的な風景とそこに暮らす人々を描き続け、60歳を過ぎることからは都市の市場や工場などを描きあげました。20世紀に なってからピサロの評価が高まりましたが、1903年敗血症で73歳の生涯を閉じます。

2017年12月9日土曜日

シスレー

アルフレッド・シスレーは1939年に裕福な英国商人の子としてパリで生まれます。

18歳で英国に留学、ターナーなどの風景画の影響を受けます。グレールのアトリエで、モネ、ルノワール、バジールと知り合います。フォンテーヌブローの森に出かけ、戸外の光を始めて描いたのはシスレーだと言われています。

晩年はフォンテーヌブローの森近くに住み、その近郊の風景を描き続けましたが、世間には認められず、不遇のうちに60歳で亡くなります。

2017年12月8日金曜日

江戸百景と印象派

浮世絵の収集家だったモネ。
ナショナル・ギャラリーの絵に描かれている睡蓮の池にかかる橋は、歌川(安藤)広重の名所江戸百景に影響を受けていると言われています。

名所江戸百景は歌川広重が安政3年~5年(1856~58年)にかけて制作した浮世絵(連作118枚)で、広重最晩年の作品です。モネの太鼓橋に影響を与えたと言われているのは、その中の「亀戸天神」です。現在ヨーロッパ各地で見る太鼓橋に藤が這わせてあるのは、この絵に藤の花が描かれているからなんですね~。

テート・ブリテンにあるホイッスラーの「青と金のノクターン・オールド・バターシー・ブリッジバターシー橋」は、

江戸百景の中の「京橋竹がし」の影響を受けています。夜の橋を描くという発想が、当時は斬新でした。

アムステルダムのゴッホ美術館にある「日本趣味・梅の花」は、

広重の名所江戸百景の「亀戸梅屋敷」のコピー。

もう一枚、ゴッホ美術館にある「日本趣味・雨の大橋」は、

広重の名所江戸百景「大はしあたけの夕立」のコピーです。広重ってすごくないですか?

2017年12月7日木曜日

印象派と着物


これはワシントンにあるホイッスラーの絵。

印象派の着物の絵といえば、モネがカミーユをモデルに描いた「ラ・ジャポネーズ」が有名です。1875年の作品で、ボストン美術館にあります。

これはアムステルダムのゴッホ美術館にある「日本趣味・花魁」。1886年に発行された「パリ・イリュストレ」誌の日本特集号の表紙に使われた英泉の「雲龍打掛の花魁」のコピー。

これがオリジナルの浮世絵です。あれ~、花魁って着物の着方がおかしくないですか?だから世界に変な着方が広まったのかも?