2017年10月7日土曜日

イギリスの学校の歴史

英国の学校の歴史

6世紀聖オーガスティンが教会に付属する施設として開設した聖歌学校と文法学校(国際語であるラテン語の文法を教えた)が最古だとされています。13世紀から15世紀にかけては、王様や貴族・聖職者・ギルド・個人の金持ちなどが直接自分で立てたり基金を寄付したりして、英国全土で300校ものグラマー・スクールがあったと言われています。

ヘンリー8世は、宗教改革によって全国800の修道院を解散させ、全土の3分の1と言われた所有地を没収・売却します。これによって修道院や教会に付属していた多くのグラマー・スクールが廃校に追い込まれました。しかし、今度は商業や工業で成功した人々が、自分の出身地にグラマー・スクールを設立する基金を寄付するのが流行、新興のブルジョア階級によって学校が再興されます。エリザベス1世の時代には全国で410校、ほとんどの地方都市に少なくとも1校はグラマー・スクールがありました。

17世紀になると、ピューリタン革命で教壇から追われた非国教徒の教師たちが、「アカデミー」という新しいタイプの学校を始めました。自然科学の発達を背景に、従来の言語中心の古典主義教育をやめて、生活に直結する実用主義教育が、新興中産階級に広く支持され、その数は70校を超えたといわれます。これに対して、旧態依然の教育をしていたグラマー・スクールはどこも生徒が激減して廃校になる学校もありました。わずかに栄えたのは、上流の子弟が集まった、イートン、ハロー、ラグビー、ロンドンで中流階級の支持を受けて発達したセント・ポールズとマーチャント・テーラーズなどで、それらは「グレート・スクール」と呼ばれ、のちのパブリック・スクールのもとになりました。

パブリック・スクールとは本来は地元の貧しい英才を無償で教育するのが目的でしたが、全国各地から高い授業料を支払ってやってくる金持ちの子弟の数が増え、やがて比率が逆転すると、地元優先枠はともかく、給費生からも実費くらいは取るべきだということになったようです。19世紀の後半になると、給費生への差別待遇はどんどん進んで、やがては別の学校を作ってそちらに移ってもらい、奨学金も経済状態中心から成績本位に変わり、支配者階級のエリート養成機関となっていきます。

1830年代以降、中流階級の子弟が、ジェントルマンとしての教養を身に付けるため、大挙してパブリック・スクールに殺到します。その結果、この時期パブリック・スクールの数が飛躍的に増加します。数十校が新設、グラマー・スクールからパブリック・スクールになる学校もありました。新時代のパブリック・スクールの共通の特色は、科学教育の重視、個性尊重、そして集団競技の奨励です。

1861年、政府のパブリック・スクール調査委員会が歴史の古い名門校9校(いわゆるザ・ナイン)の学校組織とカリキュラムを詳しく調査しました。
1864年、パブリック・スクール以外の全学校の調査委員会が発足します。(1868年調査報告書発表)
1868年、パブリック・スクール法が成立します。運営団体を確立、新しい行政規則が定められました。
1870年、小学教育法が成立し、義務教育に向けて動き出します。(1872年、日本、学制発布)

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