2011年9月26日月曜日

グラスミア

ダヴ・コッテージは、湖水地方で生まれ、人生の大部分を湖水地方で過ごし、湖水地方の美しさを詩った詩人のウイリアム・ワーズワースが、1799年から1808年まで住んだ家です。

ワーズワースは1770年、法律家の息子(5人兄弟の2番目)としてコッカマスに生まれました。8歳で母親が、13歳で父親が亡くなりますが、叔父の世話でホークスヘッドのグラマー・スクールに進学し、ケンブリッジのセント・ジョンズ・カレッジを卒業しています。

この家は17世紀に建てられたDove and Olive Branchという宿屋でした。ワーズワースは29歳の時に、妹のドロシーとここに移り住みました。ドロシーは生涯独身で、亡くなるまで兄と生活を共にし、口述した詩を書き取ったりして秘書的な役割をしていました。ワーズワースの傑作はこのダヴ・コテージに住んでいた時代に書かれています。32歳でメアリ・ハッチンソンと結婚し、3人の子供がここで生まれました。

43歳でライダル・マウントに移り、50歳のときに「湖水地方のガイド」(Guide through the District of the Lakes)という本を出版しています。本によって湖水地方の美しい景観は有名になり、1840年ごろには美しい自然を求めて都会から人が訪れるようになり、ケンダルからウィンダミア への鉄道建設計画が持ち上 がります。ワーズワースは、自然保護の観点から鉄道建設に反対する声明をモーニング・ポスト誌に投稿したりしますが、産業革命の洗礼を受け、利便性を求めていた大衆には、その思いは届きませんでした。

ワーズワースは1843年に桂冠詩人に選ばれました。桂冠詩人というのは王室によって選出され、国家的なイベントの際に詩を作る詩人のことです。1850年、散歩中にひいた風邪がもとで亡くなりました。80歳でした。

ワーズワースの死後、鉄道をウインダミアからアンブルサイドまでのばすという計画に反対したのは、美術評論家のラスキン(1819-1900)でした。ラスキンは湖水地方に移り住み、環境破壊につながるものは強く抗議してきました。ラスキンがオックスフォード大学で美術教授をしていた頃、教え子だったのがローンズリー牧師で、大学在学中からラスキンの社会運動にも参加していました。そして、女性活動家のオクタヴィア・ヒルを紹介され、のちにナショナル・トラストが創設されることになります。

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