2018年9月9日日曜日

エンゲルスの家 122 Regents Park Road NW1 8UG.


エンゲルスは、1820年にドイツ西部の繊維産業都市バルメンの紡績工場主の息子として生まれました。 父フリードリヒは二人のオランダ人と紡績企業「エルメン&エンゲルス商会」を設立し、事業を拡大させ、マンチェスターへと進出していました。

エンゲルスは17歳から家の仕事を手伝い、麻や綿の素材の性質や漂白と染色、紡績や織機に関する知識を教え込まれました。18歳で絹の販売と生糸の調達の現場を見るため父とマンチェスターに出赴き、商売のスキルを叩き込まれました。貿易港ブレーメンのロイボルド商会で見習い事務員として働き、輸出入や関税・為替など外国貿易に関わる諸々の業務を習得しました。

1842年、22歳の時、 エンゲルスはべルリンからの帰郷の途上『ライン新聞』の事務所に立ち寄り、そこでマルクスと初めて会いました。

父フリードリヒは息子の急進的な思想に危機感を感じ、再び家業を任せて現実的で堅実な生き方ができるよう、「エルメン&エンゲルス商会」のソルフォード支社を管理する立場に据えることにしました。

マンチェスターで実業に携わりながら、「イギリスにおける労働者階級の状態」を執筆。

1844年、24歳の時、パリでマルクスに再会する。マルクスとエンゲルスは終生変わらぬ友情と協力関係を築いていくようになる。

1845-47年にかけて二人はブリッセルに移って近くに住み「共産党宣言」をマルクスとともに共同起草しました。

1847年6月、共産主義者同盟ロンドンで大会を開催に参加してマルクスとエンゲルスは同盟の新会員となり、エンゲルスはパリ支部の代表に就任しました。

1848年、ドイツの3月革命において、エンゲルスは義勇軍に参加しましたが、敗れ、1849年にロンドンに亡命しました。

エンゲルスの両親は、革命運動に傾倒し、逮捕状が出され追われる身となった息子への金銭援助を止め、エンゲルスはプロイセンのスパイに監視される中で貧困生活に耐えることになります。

しかし、エンゲルスもついに音を上げて、自身と友人マルクスを救うために、渋々家族に頭を下げて仕事の面倒を見てもらうことにしました。父も息子の復帰は家業のためになるとして息子の要望を受け入れます。

エンゲルスは工場のあるマンチェスターで家業「エルメン&エンゲルス商会」に復帰しました。1850年から1860年までは一般社員、1860年から1864年までは業務代理人、そして1864年から1869年は支配人として勤め、共同経営者の地位にまで上り詰めました。最終的に年1500ポンドを稼ぐ富裕な中流階級の名士となり、馬を所有して、キツネ狩りを楽しみ、名門クラブの会員となっていました。 このようなマンチェスター時代の「二重生活」は、約20年間に及ぶこととなりました。

エンゲルスは報酬の半分以上を浪費癖の治らないマルクスに送金しました。マルクスは新聞への寄稿の謝礼に加えてエンゲルスからの送金で窮地を脱し、惨めなソーホーでの生活を抜け出します。その後、引っ越しと不相応に贅沢な暮しをしていたマルクス家の生活を支援しました。

30代からエンゲルスは過労から深刻な体調不良に悩まされていました。27歳で膿瘍を患った他、膿瘍の回復も待たず続いて腺熱で倒れてもいます。

43歳の時、内縁の妻メアリ・バーンズが41歳の若さで急逝。その後、メアリの妹のリディア・バーンズを内縁の妻に据えています。

44歳の時、エルメン・エンゲルス商会の経営権を完全に弟たちに売却する協定を結んでいます。49歳で退職。悠々自適な金利生活者になりました。

50歳の時、ロンドンのプリムローズ・ヒルに家を買います。

エンゲルスの邸宅は地下を含め五階建ての住宅で、地下にキッチンと浴室、一階に広々したリビングダイニングがあり、二階にはエンゲルスが一日の大半を過ごしていた応接室と書斎があり、三階と四階はリジーとエンゲルスの寝室、女中の部屋、リジーの姪のパンプスの部屋、来客用の部屋がありました。

エンゲルスは資産を株式購入に充てて運用し、金利生活を営む富裕な株主となっていました。

エンゲルスは日々を規則正しく過ごし、午前中は研究時間と書簡の作成、午後からは家から10分ほどの家に住むマルクスを毎日訪ねていました

エンゲルスは無神論者であり、結婚をブルジョワの偽善的慣行と見ていましたが、1878年、リジーが死に瀕する状態となった時、エンゲルスは近所の聖マークス教会の牧師を呼んできて、英国国教会の儀式に則り、リジーと正式な夫婦として承認を受けたのでした。 彼女はロンドン北西部のセント・メアリー墓地に埋葬されています。

1883年にマルクスが世を去ると、マルクスの膨大な遺稿はすべてエンゲルスに預けられました。エンゲルスはマルクスの遺稿を整理して、1885年7月に「資本論」第2巻、さらに1894年11月に第3巻を出版します。

1895年の春喉頭がんになり、エンゲルスはイーストボーンの海辺の保養地での療養生活をします。

1895年8月5日ロンドンで死去。葬儀は1895年8月10日にウエストミンスター駅の待合室で、ごく近い者でのみ執り行われた。花輪と生花に飾り付けられた特別列車が、エンゲルスの棺を乗せてウェストミンスター駅を発車。棺はワーキングの火葬場で火葬に付され、その遺灰は8月27日にイーストボーンの沖合いに散骨されました。

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