2020年10月30日金曜日
2020年6月1日月曜日
HSBC(香港上海銀行)と日本の関係
1832年、スコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウイリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンにより、中国の広州にジャーディン・マセソンという貿易商社が設立されました。設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出でした。
香港上海銀行(HSBC)は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行でした。
アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの間にアヘン戦争(1840年~42年)が起こった際に、アヘン商人であるジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は軍の派遣を決定したほどです。
1859年、上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの甥)が横浜にジャーディン・マセソン商会」を設立します。日本に進出した外資第1号としても知られています。横浜初の外国商館である社屋は、英一番館と呼ばれました。アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの間にアヘン戦争(1840年~42年)が起こった際に、アヘン商人であるジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は軍の派遣を決定したほどです。
1859年、トーマス・グラバーがジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としてグラバー商会を設立しました。グラバーが五大友厚(薩摩)、坂本龍馬(海援隊)、岩崎弥太郎(三菱財閥)などを支援したことは有名です。
1863年、ウィリアム・ケズウィックは井上聞多、遠藤謹助、山尾康三、野村弥吉、伊藤博文の長州五傑のイギリス留学を支援します。彼らの英国滞在は、ジャーディン・マセソン商会のロンドン社長ヒュー・マセソンが世話しました。
2019年11月20日水曜日
2019年6月16日日曜日
2019年6月15日土曜日
2019年3月30日土曜日
肖像画美術館で学ぶ英国史 エリザベス1世の時代
エリザベス1世
スコットランドの女王 メアリ
エリザベス1世
ウォルター=ローリーは、エリザベス1世の寵臣で、雨上がりで道がぬかるみ、女王が立ち止まったのを見て、着ていたビロードのマントを水の上にさっとひろげて汚れずにわたれたので、女王がその機転を喜んだという。
ヴァージニア植民地からイギリスにタバコとジャガイモを最初に輸入したのもローリーだと言われています。、イギリスの海外発展に功績を挙げ、サーの称号を与えられた。北米大陸への最初の入植のこころみ(1584年と1587年)は失敗したが、その地は後のヴァージニアとなった。その後もスペインと対抗して新大陸への進出の先頭に立った。エリザベスの死後、ジェームズ1世は、反スペインのローリーを嫌い、彼をロンドン塔に幽閉した。許された後、1616年に南米オリノコ川上流に黄金郷「エル・ドラド」探検を行うが失敗し、スペイン人を傷つけたと告訴されて死刑となった。
フランシス・ドレークは、1543年生まれた。
1570年以降、西インド諸島のスペイン船や町を襲う海賊活動を開始。
1577年11月、ゴールデンハインド号率いる5隻の艦隊で、プリマス港を出航
1580年9月に、生き残ったゴールデン・ハインド号のみがプリマス港に帰港し、女王に金銀財宝を献上した。マゼランに続く史上二番目の世界一周を達成した。
1588年のアマルダ海戦ではイギリス艦隊副司令官に叙任され、イングランド艦隊の実質的な指揮をとり、火のついた船を敵艦隊に送り込むという海賊らしい戦法により、スペイン艦隊を壊滅させる。
1596年、赤痢により55歳で亡くなった。鉛の棺に入れられて水葬された。
2019年3月29日金曜日
2019年3月28日木曜日
2019年3月27日水曜日
肖像画美術館で学ぶ英国史 チャールズ2世の時代
チャールズ2世
キャサリン・オブ・ブラガンザ(妻)
ヘンリエッタ・アン(妹)
バーバラがチャールズに初めて会ったのは、まだチャールズが亡命中のことでした。
王党派のいとこ頼まれブリュッッセルのチャールズのもとへメッセージを運んだのですが、チャールズは即バーバラを愛妾にしたみたいです。
1662年、チャールズ2世はポルトガル王女キャサリン と結婚することになりました。
その時妊娠9ヶ月だったバーバラはなんとか邪魔しようと手をつくしましたが、相手の肖像画を見てすっかり乗り気の王は自らポーツマスまで迎えに行ってしまいました。
バーバラ大激怒 宮殿で出産すると騒いだ挙げ句、下着を洗濯し始め、ホワイトホール宮殿の庭に干したりして使用人を慌てさせました。その後すったもんだの末王妃の女官になったバーバラは王宮に住みつくと、王妃より大きな顔でサロンを開いたりして宮廷を牛耳っていきます。モールバラ公ジョン・チャーチルなど廷臣や使用人たちと浮気を繰り返しました。1709年に孫息子の館で亡くなりました。
ルイーズは小さな頃からオルレアン公妃アンリエッタ・アン(チャールズ2世の妹)の宮廷で暮らしていました。父親ギョーム・ド・ケロワールをはじめ家族たちは、ルイーズを王侯貴族の愛妾にしたがっているのだ、と公言している人もいました。
1670年、イングランドとフランスの間にドーヴァー密約が結ばれて、アンリエッタ・アンに付き添って行ったのがルイーズだったのですが、チャールズ2世から見初められ、愛妾になっていました。
実はルイーズはルイ14世からスパイとして選ばれた女性で王の愛人となってイングランド側の動きをフランスに報告するという役目を担っていました。
ルイーズは幼くけだるそうな顔つきとは裏腹に、かなり才知に長け意志が強い女性で政治にも影響力を発揮して宮廷で幅をきかせていきます。1673年にはピーターズフィールド男爵、ファーナム伯爵、ポーツマス公爵という3つの爵位を得ています。
チャールズ2世が亡くなると、フランスに脱出、85歳で亡くなりました。
サミエル・ピープス
2019年3月26日火曜日
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