ラベル 歴史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 歴史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年12月11日火曜日

サンタクロースの歴史

英国ではサンタクロースのことをファーザー・クリスマス(Father Christmas)と呼びます。

サンタクロースのモデルは、西暦4紀頃、トルコに住んでいたニコラス司教です。彼は貧乏で娘を嫁がせることができない人の家を訪れて、夜に屋根の上にある煙突から金貨を投げ入れたのだそうです。

暖炉には靴下が下がっていて金貨は靴下の中に入ったことから、靴下の中にプレゼントを入れる習慣が始まったのだそうです。

同じキリスト教でも、ロシア正教やギリシア正教では、12月6日の聖ニコラスの日にプレゼントをもらい、25日には何ももらえないそうですよ。

2014年3月10日月曜日

九日間の女王 ~ ジェーン・グレイ

 今、日本で「9days Queen ~九日間の女王」という舞台が上演されています(3月16日まで)。主演女優さんの事務所から観劇のお誘いを受けたのですが、さすがに演劇を見るためだけに日本に行く財力は私には無いので、今回は諦めました。

「9日間の女王」の主人公ジェーン・グレイ(1537-54)は、へンリー8世の妹の孫としてレスターシャーのブラッドゲート・ハウスで生まれました。10歳の時、当時の上流階級の子女たちが身分の高い貴婦人のもとで社交や礼儀作法を身につける慣習に従い、王太后キャサリン・パーに預けられ、ロンドン・チェルシー宮殿に移りますが、翌年キャサリン・パーは亡くなってしまいます。

そのころ国王エドワード6世の健康状態は日々悪化の一途をたどっていました。ヘンリー8世の遺言に従うと次に王冠を手にするのはエド ワードの長姉メアリですが、カトリック教徒であるメアリが女王になったらプロテスタントである自分は弾圧されるだろうと考えたジョン・ダッドリーは王位継承権 第4位のジェーンに目をつけ、策略を巡らせます。

15歳のジェーン・グレイがダドリーの4男で17歳のギルフォードと結婚式を挙げたダラム・ハウスはストランドにありました。もともとダラム司教の邸宅として14世紀 に建てられましたが、ヘンリー8世により王家の所有となり、エドワード6世の時代に次姉のエリザベスの住まいとなりました。エリザベスが所有していた時代 に、ジェーンが結婚式を挙げていたというのは問題ですね。エリザベスとジェーンはチェルシー宮殿でキャサリン・パーと一緒に暮らしていた時期もあり、後にメアリ1世から陰謀に関わっていたと疑われても仕方ないですね。

結婚式から2カ月しか経っていない7月9日に国王崩御。ジェーンは義父ジョン・ダドリーに国王エドワード6世が遺言で次期女王にジェーンを指名したと伝えられたのでした。

しかし、メアリを支持するカトリック派や反ダドリー派貴族が軍勢を率いてロンドンへ進軍、7月19日に 枢密院がメアリーの女王即位を正式に宣言して、ジェーンの女王の座はたった9日で終わったのでした。

8月22日、首謀者ジョン・ダドリーがタワー・ヒルで公開処刑。 11月14日、ジェーンとギルフォードの裁判が開かれ2人に死刑判決が下されます。翌年2月12日、ジェーンはロンドン塔内で処刑されました。享年16歳と4カ月でした。

2013年2月3日日曜日

私は歴女 (大奥)

今、昨年秋のドラマのDVDを友人から借りて見ています。英国在住なので、日本のドラマは3か月遅れてまとめて見ています。

歴女の私としては「大奥」が一番面白かったです。男女入れ替わりや、疫病の話はフィクションとしても、一応史実に沿ってストーリーが作られているみたいです。春日局はもちろん、お万、お楽、お玉の方って実在の人物だったんですね~。

春日局
1579年、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘として生まれましたが、3歳の時、本能寺の変があり、父が亡くなったため、母方の親せきで養育されました。家光の乳母として江戸城に入り、家光の将軍就任後に大きな権力を持ちます。幼い家光が病に倒れた際に薬立ちの願をかけ、本当に薬を飲まずに病没ました。

お万の方
公家の家に生まれ、尼として伊勢の慶光院の住職になりましたが、就任の挨拶をするべく赴いた江戸城で家光に気に入られ側室になりました。春日局の死後、大奥を取り仕切ります。

お楽の方
古着屋の娘として生まれましたが、街中で春日局に見初められ側室になります。4代将軍・家綱の母。

お玉の方 (桂昌院)
お万の方に仕えていましたが、春日局の目に留まり家光の側室になります。家光が亡くなった時に尼になり大奥から去りますが、家綱が亡くなり、5代将軍として、お玉の子・綱吉が選ばれると、大奥で最も発言力のある女性となりました。漫画では、綱吉に子ができずに焦る桂昌院は、過去の自身による猫殺生の罪のためと指摘されたことをきっかけに生類憐みの令を綱吉に発令させます。

それにしても、 4代将軍が古着屋の娘の子、5代将軍が八百屋の娘の子というのは、今回初めて知りました。江戸時代で本妻の子が将軍になったのは、3代将軍家光だけです。面白いと思いませんか?

2013年2月2日土曜日

私は歴女 (新大橋)

5代将軍綱吉の母である桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために将軍に勧め1694年に建てたとされるのが、新大橋です。広重の絵や、

ゴッホの絵で世界的に有名ですが、1977年に建てられた現在の橋は、「ロング・バケーション」のロケ地としても有名です。昨年の秋ドラで、16年ぶりに、木村くんが「PRICELESS」で新大橋を渡ってました。ついでに言うと、山口智子さんが同時期「ゴーイング・マイホーム」で中央大橋を渡ってました。なんでもないシーンだったんですけど、「ロング・バケーション」の16年後を見ているみたいで面白かったです。みなみは主婦になり、瀬名君はホームレス?

2013年2月1日金曜日

私は歴女 (信長のシェフ)

 「大奥」が好きだったら「信長のシェフ」も好きだろうと、友人に言われました。

当たり前です。大好きな玉ちゃんが主役のドラマは時代劇じゃなくても見ますよ~。「信長のシェフ」は録画してもらえる予定がないので、毎回ネットで見ています。

私は玉担なので番宣も全部見ていて、黄金伝説1カ月1万円生活を見たドラマのプロデューサーに認められて主役に抜擢されたとか、冬の川に入るシーンは冷たくて大変だとか、キス濱で戦国時代の食品当てをやってたとか、かなり詳しいです。

料理に関しては、ドラマをご覧になった後に辻料理学校のブログも読んでいただければ、もっと楽しめます。イギリス在住なのに詳し過ぎるでしょう?

私の本職は大英博物館のガイドなんで、古代エジプトや古代ギリシャや古代ローマの勉強は常にしていますが、今度は日本の戦国時代に詳しくなってしまうかも。

2010年12月3日金曜日

1941年のアジア

映画「SHANGHAI(諜海風雲 )」は第二次世界大戦前夜の上海が舞台となっています。私の役は日本人政府高官の妻?1941年に上海に住んで、外国人が主催するパーティーに出られる日本人女性ですから、外交官の妻とか、当時かなり選ばれた人間ですよね~。

ということで、その時代のアジアについて勉強してみました。

第一次世界大戦中から、満州の権利をめぐって、日本と中国は対立していました。

1931年、武力で満州を占領。
1933年、国際連盟が満州の占領をやめるように勧告したのを不満として国際連盟を脱退。
1937年、日中戦争が始まります。
1940年、東南アジア進出をはかり、日独伊三国同盟を結んで軍事上の協力を約束。

1941年12月、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃。アメリカとイギリスに対して宣戦を布告し、太平洋戦争に突入します。

日本軍は開戦してから半年のうちに、香港、シン ガポール、ビルマ、フィリピン、インドネシアなど、東南アジアのイギリス、オランダ、アメリカの植民地をほとんど占領しました。、

1942年6月、ミッドウェーの開戦で日本軍が敗北したのをきっかけに形勢は逆転します。

1943年2月、日本軍ガダルカナル島撤退。
1943年5月、アッツ島日本軍守備隊全滅。
1944年6月、B29の本土空襲開始。
1945年3月、アメリカ軍は沖縄に上陸作戦を開始。

1945年8月、アメリカが戦後日本でソ連より優位に立つために広島と長崎に原子爆弾を投下しました。日本政府はポツダム宣言を受け入れ、天皇陛下がラジオで国民に終戦を知らせました。

2010年12月2日木曜日

1941年のヨーロッパ

第一次世界大戦で敗れたドイツ帝国は、1918年に共和国として生まれ変わり、民主的なワイマール憲法が制定されます。しかしベルサイユ条約に よって植民地をすべて失い、多額の賠償金を負わされて国民の生活は苦しく、共和国政府に失望していました。

ヒッ トラーの率いる国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)は、ドイツ民族の優秀性を説き、ベルサイユ条約反対を叫び、反資本主義的な政策を掲げて国民の心をひきつけ、共産党の勢力を恐れる大資本家にも支持されて1932年に第1党になります。1933年にナチスは国際連盟を脱退し、言論・思想の取り締まり、政党の禁止、労働運動の弾圧、ユダヤ人の迫害、軍備の拡大、ワイマール憲法もベルサイユ条約も無視して、ヒットラーの独裁政治が行われます。

オー ストリア、チェコ、スロバキアを侵略した後、1939年9月、空軍の援護の元に戦車・装甲車などを中心とする150万人の地上部隊がポーランドに進入し ます。ポーランドとの条約によりイギリスとフランスはドイツに宣戦布告。首都ワルシャワが陥落させたヒットラーは、 1940年にスカンジナビア侵攻を開始し、デンマーク、ノルウェーは占領され、オランダ、ベルギーも降伏します。1940年6月にはフランスも降伏。

こうしたヒットラーのヨーロッパ支配に対して、占領地の民衆は激しい抵抗運動(レジスタンス)を起こします。特にフランスのレジスタンスは有名でドイツ軍を散々苦しめました。

1944年6月6日、ノルマンジーの沖合いに5000隻の艦隊が姿を現し、アメリカ・イギリス連合軍の北フランス上陸作戦が始まりました。

ヒットラーはV1ロケットを持ってそれに対抗しました。V2ロケットは1944年9月8日に登場、1000発ロンドンに飛来し、2000人以上の死者を出しました。しかし、陸軍出身のヒットラーは空軍の力を軽視していたため、生産が遅れました。 

東西からじりじり攻め入る連合軍にドイツ軍は追い詰められ、1945年4月ソ連軍によって首都ベルリンは包囲されました。4月30日にヒットラーが自殺して、ドイツは無条件降伏します。

2010年12月1日水曜日

ロケットの話

ロケットの歴史は、13世紀の中国で筒に火薬を詰めて打ち出す兵器として発明されたのが始まりです。火薬と共にロケットもヨーロッパに伝わりましたが、銃や大砲が進歩してくると、命中率の悪いロケットは使われなくなってしまいました。

第2次世界大戦中、ドイツが開発したV1号とV2号ロケットは、1944年9月から半年間に2000人の死者を出しロンドン市民を恐怖に陥れましたましが、陸軍出身のヒットラーはロケットの力を軽視したため、生産が遅れ戦局を変えるほどの威力はありませんでした。

ドイツのV2の模型がロンドンの科学博物館にあったので、写真を撮ってきました。このロケットの研究をしていたフォン・ブラウンは戦後アメリカで研究を続け、アポロ11号のサターン・ロケットを開発して人類を初めて月へ送りました。

同 時に、このV2ロケットをもとにいろいろなミサイル(=兵器)が造られました。大陸間弾道ミサイル(ICBM)は射程距離8000~1万キロで、核弾頭が 装備されて おり、それぞれの目標に向かって誘導されていきます。現在ICBMを配備している国は、アメリカ、ロシア、中国(+北朝鮮?)。

2008年10月29日水曜日

質屋のシンボル

世界最古の地下鉄駅ファリンドンから、スミスフィールド肉市場までの道がCowcross Streetです。昔は、スミスフィールドの家畜市場に牛を連れて売りに行く人たちが通る道でした。

そのCowcross Streetにあるのが、The Castleというパブです。

パブの看板にはCook fighting(闘鶏)の絵が描かれています。勝負には賭け事が付き物。

負けた人のために質屋のライセンスまでありました。この3つの金の玉は聖ニコラスのシンボルでもあります。聖ニコラスが質屋の守護神だからなのだそうです。

聖ニコラスといえば、クリスマスにプレゼントを持ってきてくれるサンタクロースと同一人物。なんでサンタが質屋の守護神になったのでしょうか?

2007年7月30日月曜日

1493年の世界

グリニッジの海洋博物館の展示物の写真です。

真ん中にある赤い線が、1493年(コロンブスのアメリカ発見の翌年)、ローマ法王アレクサンダー6世が定めた世界境界線(Boundary Line)です。法王は世界を2つに分け、この線の東はポルトガル領、西はスペイン領としました。

大西洋の真ん中できれいに分けたと思っていたのですが、南半球ではアメリカ大陸が東へ出っ張っていることを、その時誰も気がつきませんでした。境界線はきっちりと守られ、ポルトガルはブラジルだけに進出しました。だから、現在でも南米ではブラジルだけがポルトガル語を話しています。

そして、アジアはポルトガルのものになり、16世紀に日本までやって来たのはポルトガル船でした。17世紀にオランダやイギリスの東インド会社が勢力を伸ばしてくるまでは、日本はポルトガルからヨーロッパを見ていたのです。

2007年4月25日水曜日

ナポレオン3世と皇太子ルイ

ウインザー城のセント・ジョージ・チャペルの中に、ナポレオン3世とユージニ皇后との間に生まれた皇太子ルイの記念碑があります。どうしてフランス革命後のフランス皇太子の記念碑が、英国の城の中にあるのか、不思議に思って調べてみました。

ナポレオン3世は、ナポレオンの1世の弟ルイの子(つまり甥ですね)で、1848年2月革命で憲法制定議会議員になり、その後大統領に就任、1852年に国民投票で皇帝になりました。

写真は、ルーヴル美術館にある「ナポレオン3世のアパルトマン」です。1856年から61年にかけて、ルーヴル宮とチュイルリー宮をつなぐために造られた豪華絢爛な部屋です。実際にはナポレオン3世の住居としてではなく、第2帝政時代の国務大臣のレセプション室に用いられたそうです。革命の時代に生きたのなら、もっと清貧に生きればいいのにと思うのは、私だけでしょうか?第2帝政没落後から、1989年までは、財務省として使われていたそうです。公務員が、こんな豪華な部屋を使ってたなんて、まったく、お役人も何を考えているんだか・・・。結局、今はルーヴル美術館の一部として、一般公開されています。

ナポレオン3世は、国民の人気を維持するため、クリミア戦争やインドシナ出兵を行いましたが、1870年のプロイセンとの戦争で、捕虜になってしまい、その間に議会は帝政の廃止を宣言、帝政は崩壊します。皇妃ユージニはイギリスに脱出。別ルートでイギリスに着いた息子のルイと、ロンドン郊外の屋敷に落ち着きます。半年後に釈放されたナポレオン3世もイギリスに亡命しますが、2年後に病死してしまいます。

で、息子のルイですが、フランスにもナポレオン帝政の復活を望む人々がまだかなりいて、後継者である皇太子ルイに対する期待はかなり大きかったようです。ヴィクトリア女王の宮廷にも招かれていたそうです(ナポレオンって王室の敵なんじゃ・・・?)ので、世渡りも上手だったのかもしれません。しかし、イギリスの士官学校で教育を受けたルイは、将校仲間とともに、南アフリカのズールー戦争に従軍することになり、偵察中に奇襲されて、23歳の若さで戦死してしまいました。彼は、戦場で戦死した、ボナパルト家の唯一の人間となりました。彼の遺体はイギリスに移送され、葬儀にはヴィクトリア女王も参列しています。

ウインザー城のセント・ジョージ・チャペルに行くときは、若く勇敢だった、ルイのことも思い出してあげてくださいませね。

2007年3月26日月曜日

サクソン時代の王様たち

写真はサクソン時代の王様が戴冠式を行っていたオール・セイント教会と、そのとき使っていた戴冠式の石です。ウエストミンスター寺院で戴冠式が行われるようになる前は、わが町キングストンでやってたんですね。

この石の上で戴冠式を行った王様は、エドバード(902年)、エセルスタン〈925年)、エドマンド〈940年)、エドレッド〈946年)、エドウィン〈956年)、エドワード〈975年)、エセルレッド2世〈979年〉の7人だそうです。

それでは、ちょっとサクソン時代の王様たちについて勉強してみましょう。

西暦3世紀ころ、ヨーロッパではゲルマン民族の大移動がおこり、その一部族であるアングロサクソン人〈青い目、金髪、長身)がブリテン島にも移住し始めます。ローマ人が撤退した後、5世紀から6世紀になると、ブリテン島に続々と押し寄せ、先住民のケルト人をスコットランド、ウエールズ、アイルランドに追いやりました。そのとき、勇敢にゲルマン人と戦ったブリトン人の勇士アンプロレウス・アウレリアヌスが、後にアーサー王の伝説として人々に伝わることになります。

アングロサクソン人は島のあちこちに国をつくり、6世紀末までには7つの王国(ケント、イーストアングリア、ノーサンブリア、マーシャ、エセックス、サセックス、ウェセックス)ができました。

8世紀末ごろから、ヨーロッパでは北欧一帯に住んでいたゲルマンの一部族であったデーン人(通称ヴァイキング)がブリテン島を荒らし始めます。やがて、その侵略は本格的になり、7王国の中のイーストアングリア、ノーサンブリア、マーシャ、ケントは次々にデーン人に占領されてしまいました。

ウェセックス王国のアルフレッド王も何回となくデーン人と戦い、最後にはデーン人を追い払い、協定を結んでデーン人の占領地〈イングランド北東部)との境界線を決めてエセックス王国を守り通すことができました。英国人はこの王のことをアルフレッド大王と呼んで歴史的英雄として尊敬しています。

そして、大王の息子のエドバートがキングストンの教会で最初に戴冠式を挙げるのです。そのうちデーン人の勢いが次第に弱まるにつれてウェセックスは逆に領土を広げていき、大王の孫のエセルスタンの時には、デーン人の土地はほとんどウェセックス王の支配下に組み入れられ、アングロサクソンによる統一イングランド王国が成立します。

エスルスタン王の後は兄弟のエドマンドとエドレッド、甥のエドウィンとエドガーに続き、比較的平和な時代が続きます。しかし、エドガー王の長男エドワード王が継母の手で殺され、異母弟のエセルレット2世が王位につくと、この王家の争いにつけこんで、機会を狙っていたデーン人が再び侵略を始めます。しかも今度はデンマークという国家組織を持った人たちでした。

王はフランスのノルマンディー公国からエンマ姫を王妃に迎え、その援助を借りようとします。王は国民からもたくさんの税金を取り立てて〈デーン税)、デーン人が攻撃をかけてくる度に多額のお金を支払ってその侵略を食い止めようとしますが、税に苦しむ国民には嫌われてしまいます。頼りにしていたノルマンの援助も、彼らが昔はデーン人だったため王の思い通りにはゆかず、王はとうとう妻の実家のノルマンディーに亡命し、その後イングランド全土はデンマーク国王スウェインの支配下になってしまいます。

幸いなことに、スウェイン王は翌年に亡くなり、デーンの軍隊も本国へ引き上げたので、エセルレット2世は亡命先から帰り、再び王制を回復します。それも束の間、1016年にはスウェイン王の次男のクヌートが大軍を率いて襲い掛かってきました。その中でエセルレット2世は寂しく世を去り、息子のエドモンド2世が即位しますが、彼もまもなく死亡します。こうやって187年続いたウェセックス王朝は幕を閉じたのでした。

この時エセルレット2世とエンマ王妃の間に生まれた幼い王子エドワードは母の故郷ノルマンディーに逃れ、26年後に再び祖国に帰り英国王として迎えられます。しかし、エドワードは幼いころからフランスで暮らしたため、アングロサクソンの風習に馴染まず、政治的には無能に近い王でした。一面、王は熱心なキリスト教徒で、ウエストミンスターに僧院を建て、その生涯を信仰に生きました。英国ではこの王のことをエドワード懺悔王と呼んでいます。彼がひとりの後継者も作らなかったことから、彼の死後、ノルマンの征服と呼ばれる大事件が起こることになるのです。