2018年7月11日水曜日

フローレンス・ナイチンゲール博物館

セント・トーマス・ホスピタルにあるフローレンス・ナイチンゲール博物館は、彼女の少女時代、クリミア戦争時代、その後の活躍まで、時代を追って展示されています。

フローレンス・ナイチンゲールの父ウイリアムは裕福な地主階級で、1818年に母フランシスと結婚して以来ずっとヨーロッパを旅しており、1819年にナポリで長女が産まれ、1820年にフィレンツェでフローレンスが生まれました。一家は夏はダービシャーのリーハーストに住み、冬はハンプシャーのエンブリー・パークで過ごし、春と秋にはロンドンを訪れました。

ヴィクトリア時代の貴婦人には貧しい人を訪ね食物や薬を与える習慣がありました。幼いフローレンスも母に連れられてリーハーストの屋敷近くの村を訪問し、病人を見舞っていました。その経験を通じ病人看護に取り組みたいと思うのですが、当時看護婦という職業は下層階級の無教養な人々が就く仕事だと考えられており、上流階級の淑女が就くような仕事ではなかったので諦めなければなりませんでした。

1851年、フローレンスが31歳の時、ようやく両親の許しが出て念願だったドイツのカイゼルベルト病院で看護の勉強をすることになります。その後もドイツやフランスの病院を見て回り、看護法を学ぶと同時に病院経営も学びました。


1854年クリミア戦争勃発。フローレンスは37人の看護婦を連れてクリミアへ出発します。フローレンスたちは、まず床を磨き、ベッドを作り、清潔にしました。 イスタンブールの市場まで出かけ、私財を投じて食料や衣類や医療品を買いました。兵士たちは清潔な寝具と暖かな料理を与えられました。

夜になるとフローレンスはランプを持って回り「ランプを持った天使」と呼ばれます。献身的看護の結果、同病院の死亡率は40%から2%に激減したと言われます。1856年戦争は終わり、生き残った兵士たちはイギリスに戻ります。

家へ帰ったフローレンスは体が弱り寝ていることが多くなりましたが、1859年には「病院に関する覚書」「看護法覚書」などを発表。1860年にはセント・トーマス病院内にナイチンゲール看護婦養成学校が設立されました。ナイチンゲールの業績は、看護婦の地位を向上させたことと病院が改善されたことです。

1910年、ナイチンゲールは90歳でその生涯を閉じます。国葬もウエストミンスター寺院への埋葬も辞退して、田舎の教会墓地に埋葬されました。

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