イスパノ・モレスクムーア人によって伝えられ、スペインで焼成された錫釉陶器をイスパノ・モレスク陶器といいます。13世紀にモンゴル人がサラセン帝国へ侵入し、各地の窯場が破壊されたため、錫釉陶器やタイルの焼成技法をもった陶工たちを含むたくさんのイスラム教徒がスペインに移住しました。13世紀末から14世紀後半の間にマラガ、ムルシア、グラナダなどスペイン南部で製作された陶器には、コバルトの青とラスター彩で唐草文、組紐文、イスラム文字、生命の樹などが描かれました。1492年のキリスト教徒の失地回復により、イスラム教徒は北アフリカに追放されてしまいましたが、南部の陶工たちは戦乱を避けて東海岸バレンシア地方に移住し、マニセスとパテルナの町がイスパノ・モレスク陶器の生産地になりました。
やがてイタリアでも模倣され、シシリー島を中心に焼成されました。聖書や神話、ラファエロの絵画にヒントを得たグロテスク文様などイタリア独自の装飾を発展させました。16世紀になると、徐々に実用性を離れ、絵画や彫刻と同様にルネッサンス芸術としてメディティ家をはじめ裕福な貴族がパトロンとなって窯を開いて、すぐれた陶工や陶画家を招いて、美術陶器の製作に努めました。テラコッタの彫像に錫釉をかけた彩色の大彫刻製作も始まりました。
石灰泥と白泥土とフリット(ガラス質)を混ぜ、鉛を含む釉を着けて、中国の青花磁器をまねしたものでした。しかし、東洋から磁器が大量にヨーロッパに入ってきて競争に負けたこと、焼成の難しさなどの理由から、製造を止めてしまいます。
ライン炻器
ドイツでは中世末期からケルンを中心に実用陶器としてストーンウェアが多量に焼成されていました。珪酸を豊富に含んだ細かい粒子の土を胎土とし、ろくろで成形、素地が柔らかいうちに器の表面に浮き彫りを施し、乾燥させたあと、長時間焼成します。窯の温度が1000度から1200度に達した時、窯の中に岩塩を投げ込むと素地の表面は薄いソーダガラス質の釉薬で覆われます。
デルフト
陶土を純白にするため粉骨を混ぜて、白く薄い陶器を完成、コバルトの青色で景徳鎮窯の青花の模作をしていましたが、1620年以降は絵柄にオランダの風物を取り入れるようになり、細い輪郭線のある素描風の技法を使うようになります。食器として用いられるより、室内を飾る調度として利用されることが多かったようです。
マイセン
ザクセン大公アウグスト2世強力公(ヨーロッパには同名の王侯が多かったので、ドイツ語でder starke、英語でthe strongと呼ばれました)は、強国スウェーデン相手に戦争をやったり、首都ドレスデンに壮麗なバロック建造物をたくさんたてるために、お金が必要でした。昔ながらの農牧業から得られる税収入は知れているので、領内にいろいろな産業を興すことに努めました。磁器を作ることはヨーロッパの陶工や王侯の夢であり、またそれに成功すれば偉大な利益が転がり込むことは確実でした。
1710年、強力公に磁器作りの実験を任されたベットガーはついにザクセン領内のアウェというところで取れる白い土を原料にして白い磁器を作ることに成功しました。強力公はザクセンで磁器作りを独占するために、ドレスデンから30kmほど離れたザクセン大公国の旧都マイセンにある城内に窯を設けました。そして外部の人間がマイセンの町に入ることを禁じ、陶工が町の外へ出たり、磁器作りの技法を他人にしゃべることを厳禁して、秘密保持に努めました。
1720年、ウイーンから招かれた画家のヘロルトによって絵付けや造形が進歩し、鮮やかで深い色調の赤、紫、茶、緑、黄、青を用いた色絵付けが始まりました。ヘロルトは中国風の建物や人物を中心としたシノアズリー調(ヨーロッパから見た東洋。東洋からの品物を忠実に写すのではなく、それらを自由に組み合わせて独特の作品を作り出し、それにロココ、バロック、ゴシックというヨーロッパの様式を混ぜ合わせたもの)の図柄に金彩を加えた豪華な作品を作りました。1725年頃からは形も文様も忠実に柿右衛門の写しを作ります。1730年代には銅版画を写した草花や昆虫などを丁寧に描くようになります。コバルトで絵付けをする技法が完成し、1730年には「ブルーオニオン」(景徳鎮窯の青花の皿に描かれていたザクロの文様を、ザクロを見たことがない絵付師が間違えて玉ねぎを描いた)が大量に生産されました。
また、ケンドラーによって、皿、鉢、花瓶、人物や動物の置物が作られるようになりました。彫像作品も多く生み出されました。マイセンでは各国の王侯貴族からの注文を受けており、紋章をつけた食器や、風景を主題にした食器などが大人数分生産されました。
セーヴル
1673年ごろルーアンにおいて、ガラスと陶器の技法の組み合わせによって軟質磁器が開発されました。17世紀末ごろにはサン・クルー工房、1725年にはシャンティ-イ工房、1735年にはヴァンセンヌ工房で、マイセン写しの柿右衛門の色絵の器を生産しましたが、1756年にセーヴルに移転しました。
セーヴルはルイ15世の愛人ポンパドール夫人によって、工芸に無関心だった王を説き伏せて、1753年にパリとヴェルサイユの中間にあるセーヴルに陶磁器工房を作らせました。優れた人材が投入され、宮廷画家として知られていたブーシェが磁器の文様を描くために登用されたりしました。1757年には華やかなピンク色の釉「ロゼ・ポンパドール」が開発されました。ポンパドール夫人の趣味に反映して、色釉を地に塗り、窓枠を金彩で縁取り、その中に絵付けを施したデザインが流行しました。
中国にいたフランス人宣教師ダントルコートが、景徳鎮から磁器の原料であるカオリンを持ち帰り、これとよく似た土をリモージュ近郊で発見したことから、1768年、フランスで最初の磁器が生まれました。ったん磁器ができると、七宝工芸で多種類の色を使っていた技術を使い、まるで細密画のような絵付けが行われました。これまでの中国の磁器では見られない絵付けであったため、中国に逆輸出され、粉彩と呼ばれる華麗な絵付けの磁器が作られるようになりました。フランス革命で王政が廃止されると、セーヴルは国立工房になりました。
リモージュ
1765年サンティリエで質の高いカオリンが発見され、より固く透明感のある硬質磁器が焼かれるようになります。七宝工芸の中心として栄えていたリモージュでも、1771年から磁器の生産が始まります。1778年に王立になった「ロワイヤル・ド・リモージュ」は「ルイ15世」「マリーアントワネット」など宮廷人たちにちなんで薄く透き通るほどに白く美しい陶器を焼き上げました。フランス革命後も生産は続けられ、19世紀には磁器の町として名声を得ます。瑠璃釉地に金彩のアクセサリーが有名です。現在もリモージュには30以上の窯があり、フランス有数の焼物の町です。
リチャード・ジノリ
1737年ジノリ候がフィレンツェ郊外で始めたドッチア工房は、初め柿右衛門や清朝の粉彩を真似て、花や鳥を描いていました。18世紀末頃にはリモージュ地方から上質の磁土が得られるようになり、質がいい磁器が作られるようになりました。小花や果実などがモチーフになっている「イタリアン・フル-ツ」は有名です。「ベッキオ・ホワイト」は白い地が美しく、編みこみのような浮き彫りが特徴です。
ロイヤル・コペンハーゲン
1773年、デンマークでもミュラーが硬質磁器の製造に成功しました。国王クリスチャン7世の保護をうけ、1779年に王室の所有になり「ロイヤル」の称号をもつようになります.「フローラ・ダンカ」は植物図鑑に描かれた花の挿絵を職人が忠実に模写したものです。「ブルー・フルーテッド」はロイヤル・コペンハーゲンの顔で白地に青の模様が描かれており、特に「フルレース」は縁がレース状に透かし彫りされています。
チェルシー
1745年、フランスから学んだと考えられるガラス質の軟質磁器がチェルシー工房で作られました。器形は銀器を手本にしたものが多く、初期の頃は白磁に浮き彫りで装飾を施したものが多く作られていました。1750年には彫像の制作も始まります。1769年ダービー工房と合併されました。
ボウ
1749年にロンドンに設立されたボウ工房の製品は、マイセンよりも丈夫で、どこの製品よりも安くて、使いやすいと評された実用的磁器でした。胎土に動物の骨を粉にして混ぜることで、磁胎を硬く焼くことができるという骨灰磁器技術はボウの工房で最初に開発され、英国のほとんどの工房で採用されました。初期の頃は、マイセンの柿右衛門手色絵磁器を写していました。その後、龍、雲、牡丹など中国的な図柄が多くなり、より薄手の作品が増えます。1756年に転写プリントによる作品を作ったのもボウが初めてでした。
ストーク・オン・トレント
陶磁器の町として有名なストーク・オン・トレントには、ウエッジウッド、ロイヤル・ドルトン、ミントンといった有名陶磁器ブランドの工場が集中しています。スタッフォ-ドシャー県は元来、陶器作りに最も重要とされる水と良質の土に恵まれていました。産業革命により量産化が進むと、燃料として必要になる石炭までもがすぐ近くで調達できるという、絶好の条件がが揃っていました。18世紀半ばにジョシュア・ウエッジウッドらがこの地に目をつけ、次々と陶磁器の名門ブランドが専用の窯を築き始めました。時を同じくして、ジョシュア・スポードによって従来の粘土に牛などの動物の骨灰を混ぜて陶器を作るボーン・チャイナ製法が見出され、強度が優れているだけでなく、独特の透明感が人気をよび、世界的な流行となりました。
ウエッジウッド
英国陶磁器の父として広く知られるジョシュア・ウエッジウッドが、初めて自分の工場を建てたのは、1759年のことでした。
ロイヤル・ドルトン
ロイヤル・ドルトンはミントン、ロイヤル・アルバート、クラウン・ダービー、ロイヤル・ドルトンの4つの有名なブランドから成り立っています。イングランドで生産されるボーンチャイナの40%、そして英国で生産される陶製人形の50%はロイヤル・ドルトンで製作されています。7500人の従業員が11の工場で働いており、英国一の規模を誇っています。4つのブランドの中で最も古いのはロイヤル・クラウン・ダービーで1748年に創業され、デザインの面では18世紀の日本の伊万里の影響をかなり受けています。ロイヤル・アルバートは4つのブランドの中では一番新しく1896年創業ですが、「オールド・カントリー・ローズ」は1962年から今までに9000万客も売れたという世界で一番売れているデザインだそうです。ロイヤル・ドルトンで売られているもので一番高い人形は300万円。ハンドペイントに160時間かかるそうです。
スポード
スポードが創立されたのは1770年。今でこそボーンチャイナは英国のすべての陶器メーカーで作られていますが、当時のイギリスでは真っ白に輝く陶器を作るには長年の夢でした。工場という工場で実験が繰り返される中、スポードがいち早く粘土に骨灰を混ぜ合わせる方法を発明したのでした。1806年に工場を訪れたプリンス・リージェント(後のジョージ4世)によってスポードは王室御用達の名誉を賜ることになります。博物館では1867年にパリ万博に出品された作品を始め、珍しい陶器を見ることができます。芸術家によって絵付されたり、ふんだんに金で装飾してあったりと、スポード王侯貴族に愛されてきた歴史がよく分かります。
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