ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート(James Francis Edward Stuart)1688-1766
ジェームズ2世と2番目の妻メアリ・オブ・モデナの間に生まれましたが、父王のジェームズ2世が親カトリック政治を行なって議会との対立を深めたため、名誉革命が勃発しました。オランダ軍のイングランド上陸から数週間でジェームズは母に連れられてフランスへ避難し、父もウィレム3世によって廃位されてフランスへ亡命しました。ジェームズはフランスで育てられ、ルイ14世によってイングランドとスコットランドの正統な王位継承者と認められました。1701年に亡命中の父が死去したためジェームズは王位を継承し、ジャコバイトたちの中心人物となります。もし彼がカトリックからプロテスタントに改宗すれば、異母姉アンの死後に王位を継承することができましたが、改宗を拒否しました。1714年にはスペイン王位継承戦争でフランスがイングランドに敗れ、ルイ14世は講和を余儀なくされると、ジェームズはフランスから追放され、支援を断たれました。ジェームズは1766年ローマで死去し、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂に葬られました。
チャールズ・エドワード・ステュアート(Charles Edward Stuart)1720-1788
ジェームズ2世の孫、チャールズはローマで生まれました。教皇の庇護をうけ、少年時代をイタリアで過ごした。ジャコバイトの多いスコットランドではチャールズの人気が根強く、「ボニー・プリンス・チャーリー」と呼ばれて愛されていました。1745年のジャコバイト蜂起でチャールズは念願のブリテン上陸をはたし、政府軍を破りましたが、カロデンの戦いでカンバーランド公ウイリアムに惨敗し、変装して大陸に逃げ帰ります。その後、チャールズのイタリアでの淫蕩生活やカトリック信仰へのこだわりから、以前の熱狂的な人気は色褪せて、チャールズはそのままローマで亡くなります。
フローラ・マクドナルド 1722-1790
ボニー・プリンス・チャーリーとして知られるチャールズ・エドワード・スチュアートが、ジャコバイトの敗北のあとにアイルランド人女中に扮装してフランスへ逃亡するのを助けたのがフローラです。彼らが別れる時に、王子はフローラに彼の肖像画が入ったロケットを渡して「セント・ジェームズ宮殿で会えるといいですね。」と言いましたが、彼女は二度と彼に会うことはありませんでした。彼らのロマンティックな冒険はハイランドの歌と伝説に残っています。
ジョージ1世(George I)1660-1727
イギリス王ジョージ1世となるゲオルク・ルートヴィヒは1660年、ハノーバー選帝侯エルンスト・アウグストとその妃ゾフィーの長男としてハノーバーで生まれました。
カリックの国王を望まないイングランド議会は、ステュ
アート家の血を引き、かつプロテスタントであるゾフィーの子孫のみが国王となることができるとする王位継承法を制定したため、規定に従ってゾフィーの長男である54歳のゲオルクがイギリス王ジョージ1世として即位しました。
ジョー
ジ1世はほとんど英語を話さず、イギリスの国内政治にはさほど興味を持たず
ドイツ滞在が多かったため、内閣に政務の一切を委ねるようになり、内閣は国王にではなく議会に責任を負うこととなりました。1727年、ジョージ1世は、ハノーファーで亡くなります。
ロバート・ウォルポール(Robert Walpole)1676-1745
最初のイギリス首相。英語が分からないジョージ1世に代わり、ウォルポールが平和外交政策をとり続けたので、イギリス平穏な日々が続き「君臨すれども統治せず」という立法君主制が確立されます。巧みな政治手腕で議会を掌握し続け、20年に及ぶ長期安定政権を築いてイギリスが国家として躍進する土台を築きました。ウォルポールにはダウニング街10番地の邸宅を与えられ、以後歴代のイギリス首相はここに住み続けることになります。
ジョージ2世(George II)1683-1760
ハノーバーで生まれ、10歳の時、父王と母ゾフィーは離婚、城に幽閉され、ジョージは生涯母と会うことは許されなかったので、父を憎むようになり終生不仲は続きました。22歳の時、キャロラインと結婚しました。1727年、父の死去によりイギリス王ジョージ2世、及びハノーファー選帝侯ゲオルク2世アウグストとして王位と選帝侯位を継承しました。
1743年、ヘンデルの『メサイヤ』が初めてロンドンで演奏された際(初演は1742年、アイルランドのダブリン)、最後の「ハレルヤ・コーラス」の途中で感動して起立したという逸話があり、今日の演奏会でも聴衆が「ハレルヤ・コーラス」の部分で立ち上がるのもこのジョージ2世の逸話に端を発しています。アメリカのジョージア州はジョージ2世にちなんで名づけられたものです。
キャロライン・オブ・アーンズバック(Caroline of Ansbach)1683-1737
1705年にハノーバー選帝侯世子ゲオルクと結婚。1727年に夫がジョージ2世として即位します。ヘルニアの手術の失敗のため54歳で死去するまで、ジョージ2世との関係は良好でした。
死期を悟ったキャロラインは、自分を見舞うジョージ2世に対し、自分が死んだら再婚して欲しいと言ったら、ジョージ2世は『愛人はつくるが、再婚はしない。』と宣言しました。キャロラインはウエストミンスター寺院に埋葬され、ジョージ2世は23年後に亡くなるまで、「宣言」を守り、愛人は作ったが、再婚しませんでした。王の遺言に従い、王は王妃の棺と並びあう王の棺の横板と、王妃の棺の横板を外させた上で埋葬されました。
フレデリック皇太子(Frederick Louis)1707-1751
1714年に祖父がジョージ1世としてイギリス国王に即位すると、母は妹3人を連れてロンドンに移住しましたが、7歳の長男フレデリックはハノーバーへ残されました。ジャコバイトによる暴動・襲撃を警戒しての措置であったといいます。1751年、48歳のフレデリックはクリケットのボールで頭を打たれて亡くなりました。 妻のオーガスタはキューガーデンを作りました。
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel)1685-1759
1685年、ドイツに生まれ。厳格な父の期待に従い、ハレ大学で法律を学びましたが、音楽への情熱を断ち切れずハンブルグへ出てオペラで成功しました。1706年からはイタリアの各地を巡り、イタリア・オペラに接してそれを吸収しました。1710年にハノーバー選帝侯の宮廷楽長となりましたが、宮廷楽長の地位はそのままに1712年にはロンドンに移住してしまいます。1714年、ハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として迎えられることになり、「水上の音楽」や「花火の音楽」を作曲しました。1727年には正式に帰化しました。1751年に左眼の視力を失い、間もなく右眼の視力も悪化し、1752年に完全に失明しましたが、演奏活動だけは続けていました。74歳で死去。
サー・ジョゼフ・バンクス(Sir Joseph Banks)1743-1820
バンクスは、王立協会と王立海軍が計画した(ジェームズ・クックによる太平洋探検の第一回航海である)エンデバー号による南太平洋探検航海に、科学班の一員として参加しました。
エ
ンデバー号は、まずブラジルに向かい、タヒチ、ニュージーランドを経由してオーストラリア東岸に到達しました。バンクスらは珍しい植物標本を採集し、ユーカリ、アカシア、ミモザを西欧にはじめて紹介しました。帰国後、ロンドンに身を落ち着けたバンクスは、太平洋航海で収集した膨大な植物・動物標本に加え、描かれた約1500枚の絵を元に、『植物図譜』の制作に取りかかりました。1778年に王立協会の会長に選出されると、その後41年間、死ぬまで会長職を続けました。バンクスは世界各地に探検家と植物学者を派遣して植物を収集し、キューガーデンを世界屈指の植物園に育て上げます。77歳で亡くなりました。
エドモンド・ハレー(Edmond Halley)1656-1742
ロンドンの裕福な石鹸製造業者の子供として生まれた。オックスフォード大学のクイーンズ・カレッジを卒業、結婚し、ロンドンに住みました。この時期ハレーはほとんどの時間を月の観測に費やしていました。ハレーは英国海軍のパラモア号の艦長に任命され、広範囲の地磁気観測を行ないました。1720年にグリニッジ天文台長となり、死ぬまでその職にありました。ハレーは著書で、1456年、1531年、1607年、1682年に現れた彗星は同一の天体であり、次は1758年に
回帰することを予言しました。ハレー自身はこの彗星を見ることなく85歳で亡くなりました。この彗星はハレー彗星
(Halley's Comet) と呼ばれることになりました。
ジェームズ・ワット (James Watt )1736-1819
イギリスの産業革命はスコットランドのエンジニアであるワットによって始まりました。ワットはニューコメン機関の模型の修理を行った際、改良に着手し熱効率の改善とピストンの上下運動を回転運動に変えました。動力に割ったが発明した蒸気機関が利用されることで飛躍的に生産量を伸ばしました。資本家は機械性の大工場経営に乗り出し、機械工業、製鉄業なども発展を遂げ、イギリスは世界の工場となりました。
マシュー・ボールトン (Matthew Boulton)1728-1809
18世紀の後半、ワットと共同でボートン・アンド・ワット蒸気機関を何千基も据えつけて、工場や製粉所、製糸場の製造技術向上に貢献しました。ワットと共に50ポンド札の顔です。
ジョージ3世(George III)1738-1820 「農夫王」(Farmer King)
22歳の時、祖父ジョージ2世のあとを継ぎ即位しました。翌年、シャーロットと結婚。他の王のように愛人を持つこともなく、生涯王妃を大切にしました。ジョージ3世の統治の間にアメリカ独立、フランス革命などがあり、精神の病気にかかりました。1811年から長男ジョージが摂政となります。82歳で亡くなります。
シャーロット妃(Sophia Charlotte of Mecklenburg-Strelitz)1744-1818
1761年にジョージ3世と結婚。家庭生活は円満で、9男6女の母となり、夫の女性関係では苦労することも全くありませんでした。たびたび精神異常を引き起こした夫を献身的に介護し、ウインザー城で共に暮らしました。キューガーデンの設立にも協力したり、ウエッジウッドを購入し、「クイーンズウェア」の称号を許可しています。1818年ウィンザー城内のセント・ジョージズ・チャペルに埋葬されました。
ジェームス・クック船長 Captain James Cook 1728-1779
ヨークシャーで農場労働者の子として生まれたクックは初歩的な学校教育を受けただけで、父を助けて働きました。18才の時見習い水夫となり航海術を身につけ、26才で正式に海軍軍人になりました。
キャップテン・クックの探検航海:
第1回(1768~1771):~:(西回り世界一周航海)
プリマス出帆~ホーン岬~タヒチ島~ニュージーランド~オーストラリア~トレス海峡~
バタビア~インド洋~喜望峰~ダウンズ(ドーバー)港に到着
第2回(1772~1775):~:(東回り世界一周航海、南極圏を一周航海)
プリマス出帆~喜望峰~南極海~3度の南極圏突入~ニュージーランド~太平洋~
フェゴ島~サウスジョージア島~喜望峰~スピットヘッド(ポーツマス)に到着
第3回(1776~1779):~:(ハワイ諸島発見、北極海探検航海)
プリマス出帆~喜望峰~ケルゲレン諸島~タスマニア島~ニュージーランド~
太平洋~北極海~ハワイ島ケアラクワにて戦死
ジョージ4世(George IV,)1762-1830
ジョージ3世が病気のため、1811年から1820年(ナポレオン戦争の時期)、摂政を務めました。皇太子時代の素行は非常に悪く、王室費の半分に相当する額と同じ金額の借金をこしらえ、父の精神障害の原因とさえも言われました。58歳で即位。妃のキャロラインを嫌い、戴冠式から王妃を締め出しました。
ホレーショ・ネルソン(Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson)1758-1805
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ナポレオンによる英本土侵攻を阻止しましたが、自身はトラファルガーの海戦で深い傷を負い戦死しました。イギリスの英雄。
ウエリントン公爵アーサー・ウェルズリー(Duke of Wellington) 1769-1852
ナポレオン戦争で軍功を重ね、最終的に1815年のワーテルローの戦いではナポレオン打ち破った軍人です。保守党の政治家としても活躍し、二度にわたって首相を務めました。
ジョージ4世(George IV,)1762-1830
マリア・フィツハーバート(Maria Anne Fitzherbert) 1756~1837
ハンプシャーで生まれてパリで教育を受けたマリアは23歳で未亡人になりました。28歳でジョージ皇太子と恋人関係になり、29歳でこっそり結婚したと言われています。国教会の牧師もいたし、立会人も2人いて手続きには問題ありませんでしたが、父王の承認を得ていなかったので違法とされて、結婚は成立しませんでした。ジョージは40万ポンドに膨らんだ借金をチャラにするため、ちゃんとした結婚をすることにしました。1794年に結婚するためにマリアと別れ、キャロラインと政略結婚しますが、早々に妃に嫌気がさしてマリアのもとへ帰ってきました。1837年にフィッツハーバード夫人として亡くなり、ブライトンに葬られました。
キャロライン・ブランズウィック(Caroline of Brunswick)1768-1821
ジョージは、フィッツハーバート夫人を何としても手に入れようと、教会で結婚式をしていました。困り果てた父ジョージ3世は、正式な結婚を皇太子に迫り、それを条件に借金の棒引きを持ちかけました。ジョージは肖像画でその美貌が謳われていたキャロラインを選び、政略結婚となりました。 1795年ロンドンに到着したキャロラインと面会したジョージは、彼女の強烈な体臭に面食らい、キャロラインのほうもジョージの異常な肥満体に失望しました。3日後、セント・ジェームズ宮殿で挙式が行われましたが、ジョージは酔っぱらい、弟たちに左右を支えられて立っている有様でした。シャーロット王女が生まれて間もなく2人は別居し、ジョージは愛人フィッツハーバート夫人と再び同棲を始めました。シャーロット王女は王家が養育することになり、キャロラインから引き離されました。娘と会うのをジョージに妨害され、孤独の生活に追いやられたキャロラインは、1813年から大陸諸国への旅行を許され、旅から旅の生活が始まった。1821年死去。遺言でウインザーに眠るシャーロット王女のそばに埋葬されることを望みましたが、それも拒否され、故国のドイツに葬られました。
シャーロット王女(Charlotte)1796-1817
ジョージ4世とキャロライン王妃との間に唯一の王女。シャーロットは1816年、後にベルギー国王ととなるザクセン公子レオポルトと結婚したが、翌1817年に男子を死産して間もなく死去しました。
ウィリアム4世(William IV)1765-1837
青年時代は海軍に勤務していたため、Sailor King の愛称で親しまれました。
女優として活躍していたドロシー・ジョーダンと20年夫婦同様に生活し、10人の庶子を儲けました。王家の跡継ぎをつくるため1818年、ザクセン公の娘アーデルハイトと結婚しましたが子供は夭折しました。65歳で即位。高齢の国王は、海軍時代に市内を自由に歩き回ったのと同じように、侍従も連れずに気軽に市中へ出かける習慣を止めませんでした。治世中、児童労働の制限と奴隷労働の廃止などが議会で可決されました。1837年死去。イギリス王位は姪のヴィクトリアが、ハノーファー王位は弟のエルンスト・アウグストが継ぎました。
ドロシー・ジョーダン(Dorothy Jordan)1761-1816
アイルランド人の女優で、「ミセス・ジョーダン」の芸名で有名になりました。1780年代後半からウィリアムと同棲を始めますが、同棲後も彼女は女優として舞台に立ち続けました。ウィリアムとの間に10人もの子供を生み、彼らにはフィッツクラレンス(FitzClarence:「クラレンスの子」の意味)の姓が与えられました。
1811年、ウィリアムはザクセン=マイニンゲン公女アーデルハイトと正式に結婚することになり、ドロシーとの関係を解消しました。ドロシーは舞台に立たないという条件でウィリアムから年金を受け取りますが、1814年に娘(ウィリアムの娘ではない)の夫が借金を返せず、ドロシーはその肩代わりのために再び舞台に立ちました。ウィリアムは直ちに庶子たちを引き取り、ドロシーへの年金の支払いを中止しました。1815年、ドロシーは借金取りから逃れるためにフランスに渡り、翌年パリ近郊のサン=クレーで貧窮して亡りました。
ジョージ・スチーブンソン(George Stephenson)1781-1848
蒸気機関を輸送車両の動力に利用するというアイデアに多くの人々が挑戦しました。1804年トレヴィシックはワットの蒸気機関の小型化、高圧化に成功し、軌道を走る蒸気機関車を開発しました。これに触発されたスティーブンソンは1814年に蒸気機関車ブリュッヘル号を完成させました。実用化のために機関車を改良し、1825年ロコモーション号を開発し、鉄道網は距離を延ばしていきました。スチーブンソンは「鉄道の父」と呼ばれており、立身出世の代表例とされました。彼が採用したゲージ(1,435 mm)は世界中の鉄道の標準となっています。
エドワード・ジェンナー(Edward Jenner)1749-1823
ジェンナーが医師として活動していた頃には、牛の乳搾りなどをして牛と接することによって自然に牛痘に
かかった人間は、その後天然痘にかからないという農民の言い伝えがありました。ジェンナーはこれが天然痘の予防に使えないかと、18年にわたって研究を続
け 1796年ジェンナーの使用人の子である8歳の少年に牛痘を接種しました。少年は若干の発熱と不快感を訴えたがその程度にとどまり、深刻な症状はあり
ませんでした。6週間後にジェンナーは少年に天然痘
を接種しましたが少年は天然痘にはかからず、牛痘による天然痘予防法が成功しました。その後の天然痘の大流行を機にジェンナーの種痘法は急速に普及し、彼
は「近代免疫学の父」と呼ば
れるようになります。その後天然痘ワクチンは改良されて世界で使われ、1980年には天然痘の根絶が宣言されました。
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