2019年3月16日土曜日

ナショナル・ポートレート美術館 (スチュワート王朝時代)

ジェームズ1世(James I)1566-1625
スコットランド女王メアリとヘンリー・スチュアートの長男として、エジンバラ城に生まれました。生後8ヶ月のときに、父が惨殺され、母は首謀者と結婚してイングランドに亡命したので、幼いジェームズはスコットランド国王になりました。23歳の時に、デンマークの王女アンと結婚。隣国のエリザベス1世が亡くなると、37歳でイングランド国王になります。
1605年カトリックのガイ・フォークスが議会に爆発物を仕掛け、国王の暗殺を企てたが、未遂に終わっています。お気に入りのジョージ・ヴィリヤーズをバッキンガム公爵に取り立てました。
1625年病死。

アン・オブ・デンマーク(Anne of Denmark) 1574-1619
父はデンマーク、ノルウェー王のフレデリック2世。1589年にジェームズ1世と結婚しました。ブロンドで美貌の女性でしたが軽薄で浪費癖がありスコットランドの財政を脅かしました。ロンドンへ移ってからはイングランド宮廷の華美な行事や催し物が気に入り、仮面劇をたびたび催し、自分も演じていました。侍女や側近を多数連れての大旅行を好み、保養地バースはお気に入りでした。アンが亡くなると莫大な負債が残され、夫ジェームズは悩まされることになりました。

バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズ(George Villiers)1592-1628
ジェームス1世とチャールズ1世の2代にわたって重臣として仕え、官職を歴任しましたが、最後は暗殺されました。

エリザベス・ステュアート(Elizabeth Stuart) 1596-1662
ジェームズ1世と王妃アンの長女。エリザベスが生まれた当時、父ジェームズ6世はイングランド女王エリザベス1世の後継者となることを望み、女王の関心を買うつもりで、長女に女王と同じ名を付けました。
1613年、ボヘミアの選帝侯フリードリッヒ5世と結婚し、宮廷のあったハイデルベルグで暮らします。30年戦争(ボヘミアにおけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、1618から1648まで神聖ローマ帝国内で局所的に起きたプロテスタントとカトリックの戦争)に敗れて王位を逐われ、1622年にオランダに亡命、ハーグで暮らしました。夫に先立たれた後、1661年にイングランドへ帰り、翌年ロンドンで亡くなりました。夫フリードリヒ5世との間には13人の子をもうけた。五女ゾフィーはハノーバー選帝侯エルンスト・アウグストと結婚したが、その息子ゲオルク・ルートヴィヒはエリーザベトの孫であったので、ジョージ1世となりました。

ヘンリー・フレデリック・スチュアート(Henry Frederick Stuart, Prince of Wales)1594-1612
ジェームズ1世とアン王妃の長男。1603年に父がイングランド国王になると1610年にはプリンス・オブ・ウェールズの称号が与えられました。1605年にオックスフォード大学のモードリン・カレッジに入学しましたが、チフスに倒れて18歳の若さで亡くなります。美男子で明るい性格であったと伝えられ、父や弟と違って次期国王としてイングランドを理解する事に務めていたので、もし彼が王位を継承していたならば、その後の議会との全面衝突を回避できたのではないかとする意見もあります。

チャールズ1世Charles I)1600-1649
ジェームズ6世の次男として、スコットランドに生まれました。兄が亡くなったため皇太子になり、
1625年、父の死去に伴い王位を継承します。カトリック信徒のヘンリエッタ・マリアを王妃に迎えたことは反カトリック派の反感を買うことになりました。芸術を愛好し、今日のロイヤル・コレクションの礎を築きました。
チャールズ1世は父王同様に王権神授説を信奉し、議会と対立しました。チャールズは、国教統一に乗り出し、ピューリタンを弾圧すると、各地で反乱が起きました。1640年、、スコットランドの反乱鎮圧のための戦費を得る目的で11年ぶりに議会を招集したが、議会は国王批判の場となりました。1642年、チャールズは反国王派の5人の議員を逮捕しようとして失敗、議会派と王党派の内戦が勃発しました。オリヴァー・クロムウェル率いる議会軍に追い詰められ、1646年チャールズ1世はスコットランド軍に降伏し、囚われの身となりました。一旦は脱出したものの、1648年に再び議会軍に投降して、1649年1月27日、裁判によってチャールズの処刑が宣告され、1月30日、ホワイトホール宮殿前で公開処刑された。

ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(Henrietta Maria of France) 1609-1669
フランス王アンリ4世とマリー・ド・メディチの娘としてルーブル宮殿で生まれました。1625年チャールズ1世と結婚。セント・ジェームズ宮殿内に豪華なカトリックの礼拝堂を設け、国民感情を逆なでしました。

チャールズ2世Charles II)1630-1685
1630年、チャールズ1世とヘンリエッタ・マリアの子として生まれました。革命の危険が高まったため、1646年に母たちとフランスやオランダに亡命しました。1658年にオリヴァー・クロムウェルが死去すると、イングランド議会は王政復古を決議します。
1660年、チャールズ2世として即位し、1662年ポルトガル王女キャサリンと結婚しました。チャールズ2世は女好きで、愛人が14人、認知された庶子が14人いましたが庶子には王位継承権はなく、1685年に亡くなると、弟のジェームズが即位します。

キャサリン・オブ・ブラガンザ(Catherine of Braganza) 1638-1705
1638年、ポルトガルのリスボンで、ポルトガル国王ジョアン4世の次女カタリナとして誕生しました。父ブラガンサ公ジョアンは、1649年にポルトガル国民の圧倒的支持を受けてスペインからの独立を宣言しましたが、スペインとの長期にわたる戦争が始まり、ポルトガル一国では対処できない事態になっていったので、イングランドとの同盟関係の樹立を図るべく1662年に娘をチャールズ2世と結婚させました。この結婚によって北アフリカのタンジールとインドのボンベイが持参金としてイングランドにもたらされ、後年イギリスの海外進出の拠点として重要な位置を占めることとなりました。熱心なカトリックであったキャサリンは、チャールズ2世の戴冠式に出席するのをを拒否しました。貿易先進国として繁栄していたポルトガルの王女だったキャサリンが生活していたサマーセット・ハウスでは、訪問者に紅茶が毎日ふるまわれました。チャールズう2世との間には子供がいませんでした。夫の死後、ポルトガルに帰り67歳の天寿を全うしました。

ヘンリエッタ・アン・ステュアートHenrietta Anne Stuart)1644-1670
チャールズ1世と王妃ヘンリエッタ・マリアの次女として生まれました。5歳の時父王が処刑され、母ヘンリエッタ・マリアは、子供を連れて実家のあるフランスに亡命しました。1660年に兄がチャールズ2世として即位したため、ヘンリエッタはイングランドに帰国します。ヘンリエッタは美しい王女に成長したという評判を聞きつけたルイ13世妃は、ヘンリエッタをぜひ次男フィリップの妻にと申し込み、1661年、ヘンリエッタは母方の従弟に当たるオルレアン公フィリップと結婚しました。
1668年、ルイ14世はイングランドと同盟を結ぶことを決め、ヘンリエッタは密使としてイングランドに向けて旅立ちました。兄チャールズ2世は妹との再会を大変に喜びドーバー秘密条約が結ばれますが、しかし、ヘンリエッタ・アンが帰国した翌月チコリを飲んでいる最中に突然苦しみ出し、そのまま急死してしまいました。毒殺も疑われましたが、死因は重い腹膜炎でした。

ルイーズ・ルネ・ケルアイユ(Louise Renée de Penancoët de Kérouaille) 1649-1734
ルイーズは1649年9月、フランスの貧乏貴族の家に生まれます。両親はルイーズを宮廷女官になるべくしつけ、ルイ14世の寵姫にするつもりでヴェルサイユ宮殿に連れて行きました。しかし、ちょうどその頃ルイ14世は、別の若く美しい侍女に夢中で、ルイーズを弟フィリップの妃ヘンリエッタの侍女にしました。
ルイーズはロンドンを訪れたヘンリエッタに同行し、その時チャールズ2世に見初められました。ヘンリエッタが急死した翌年、ルイーズはルイ14世の命によってチャールズ2世の王妃キャサリン付きの女官としてロンドンの宮廷に送られます。チャールズ2世の宮廷をフランス側に引き込むためである。ルイーズはチャールズの心を捉え、すぐにホワイトホール宮殿に豪華な続き部屋を与えられました。ルイーズはチャールズ2世やジェームス2世をカトリック側に引き付けるのに大きな役割を果たし、チャールズ2世没後はフランスに帰国し、ルイ14世の宮廷から下りる年金で生活しました。

ジェームズ2世(James II )1633-1701
ジェームズ2世はオランダに亡命中に姉のオラニエ公爵夫人の侍女アン・ハイドを見初め結婚しました。2人の間にはメアリ王女とアン王女が生まれます。1671年、アン・ハイドが34歳で亡くなると、ジェームズはカトリックのモデナ公爵の娘メアリと再婚します。 1688年メアリ王妃が男子ジェームズを生むと、議会はカトリックのジェームズ2世を追い出し、ジェームズ2世の長女メアリを王としました。

モンマス公爵ジェームズ・スコット(James Scott, 1st Duke of Monmouth)1649-1685
チャールズ2世と愛妾ルーシー・ウォルターの子として、オランダで生まれました。当時チャールズ2世は亡命中の身で、ルーシーからジェイムズを引き取ることができませんでした。母と死に別れ、14歳のジェイムズはイングランドへ渡り父の元に名乗り出ると、チャールズ2世は早速爵位を与え、自分の子として認知しました。人気があり、次の王位を望む声もありましたが、チャールズ2世は頑としてモンマス公爵を嫡子とすることを拒否しました。
1685年に父が没してヨーク公爵がジェイムズ2世が即位すると、スコットランド貴族と共に反乱を起こしジェイムズ2世の即位阻止に動きますが、捕らえられ処刑されました。
「鉄仮面」は、ジェイムズ2世は甥を刑死させるのに忍びず、彼を死ぬまで監禁させ、顔が知られないよう鉄の仮面を被せ、フランスへ連れて行かれたというストーリーです。

メアリー2世(Mary II)1662‐1694
ジェームズ2世とアン・ハイドの長女。従兄弟のウイリアム3世と結婚が決まった時は嫌で泣き出したと言われていますが、夫婦仲は良かった様です。1688年名誉革命が起こり、カトリックの父王ジェームズ2世はフランスに亡命します。1689年、議会はウイリアムとメアリをイングランド王として迎え、2人は共同統治を始めます。1694年、天然痘のために亡くなります。

ウィリアム3世(William III) 1650‐1702
父はオランダ総督ウィレム2世、母はチャールズ1世の娘メアリ、妻はイングランド女王、スコットランド女王、アイルランド女王メアリ2世。1688年、名誉革命でイギリスに上陸し、義理の父であるジェームズ2世を追い出し、イングランド王位に付きます。子供は無く、妹アン王女にも子供がいなかったため、1701年に「王位を継ぐものはプロテスタントでチューダー王家の血を引くものに限る」とする王位継承令を議会で議決させました。 翌1702年、馬から落ちたことが原因で亡くなります。

アン女王(Anne Stuart) 1665-1714
1665年、ジェームズ2世アン・ハイドの次女として生まれました。姉と一緒にプロテスタントとして育てられましたが、教養があまりなく、読書や芸術よりスポーツや乗馬を好みました。1683年、デンマーク、ノルウェー王の3男のジョージと結婚。夫婦仲はよく、毎年のように妊娠しましたが流産、死産を繰り返しました。
1688年の名誉革命では、姉の夫であるオランダ総督ウイリアム3世がイングランドに上陸。父が追放された後、姉夫婦がメアリー2世・ウィリアム3世として共に即位します。2人に子がなかったので、早くから王位継承者の候補と目されるようになり、ホワイトホール宮殿の一室を与えられ、そこで生活しました。ウイリアム3世が1702年に没すると、アンがイングランド、スコットランド、アイルランドの女王に即位しました。1707年には、イングランド・スコットランドの合同法が成立し、グレートブリテン王国最初の君主となりました。アンには成人した子がいなかったので、即位前から将来の王の後継者は問題でした。アンにはフランスに亡命した異母弟ジェームズがいましたがカトリック信者であり、プロテスタント中心の議会勢力は即位を望みませんでした。そこで、ステュアート家の血を引きプロテスタントであるハノーバー選帝侯妃ゾフィーの子孫が継承者となるべきことを定めた王位継承法が議会で制定されれました。アンは1714年に病死しました。

サラ・チャーチル(Sarah Churchill)1660-1774
サラ・ジェニングスは少女時代からアン女王の親しい友人でした。サラは軍人ジョン・チャーチルと結婚した後もアン女王に仕えました。

マールバラ公爵、ジョン・チャーチル(John Churchill,  Duke of Marlborough) 1650-1722
アン女王が即位した時、スペイン継承戦争が本格化し、イングランドはオランダと共にオーストリアと同盟して、フランスおよびスペインと戦うことになりました。アンは友人サラの夫マールバラ伯をイングランド軍総司令官に任命し、1704年、マールバラ公は南ドイツで行われたブレンハイムの戦いでフランス軍を破る大戦果をあげ、フランドルでも戦勝を重ねました。スペインとの戦いでは、イギリス艦隊がジブラルタルを陥落させ、複数の海外領土を獲得しました。ジョン・チャーチルはフランス軍を破った報償としてウッドストック村に広大な地所を与えられ、ブレナム宮殿を建設します。

サー・アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton)1642-1727
イングランドのリンカーンシャー州の農家に生まれました。1661年にケンブリッジ大学に入学しましたが、1665年ペストの流行で大学が一時休校となり、ニュートンはリンカーンシャーの実家に戻って2年間を過しました。落ちるリンゴを見て万有引力がひらめいたのはこの時です。1667年にケンブリッジに戻り、1696年まで数学教授などを歴任しました。数学では微分積分学にも取り組み、光学にも関心を持っていたニュートンは、白色光は虹を構成するすべての光の色の混合色であるという説を発表しました。ニュートンはガラスのレンズに鏡を組み合わせた望遠鏡を設計し、それまでの望遠鏡よりも鮮明で正確な像を得ることができるようになりました。 晩年は造幣局長官、下院議員を務め、王立協会の会長などを歴任しました。84年の生涯を閉じ、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。

 
ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)1667-1745
アイルランド人の風刺作家で著名な作品にガリヴァー旅行記があります。アイルランドの10ポンド紙幣に肖像が使用されていた。

キット・カット・クラブ会員の肖像画
18世紀、ロンドンにホイッグ党員たちが集まる「Kit-Cat Club」という政治社交クラブがありました。第一回の会合がクリストファー・カット(Christopher Catt)という人物が経営していたタバーンで開催され、経営者の名前(当時クリストファーの愛称はキットであった)から「キット・カット」と呼ばれるようになった羊肉のパイを食べながら話を進めたので、キット・カット・クラブになりました。ゴッドフリー・ネラーによるクラブ党員の肖像画は、切り取られて通常より縦の寸法が短くなっています。有名なチョコレートはその切り取られた肖像画と形状が似ていることから、名づけられたと言われています。

ウィリアム・ホガース(William Hogarth) 1697-1764
ロココ時代のイギリス画壇を代表する国民的画家。

アントニオ・ヴェリオ(Antonio Verrio)1640-1707
チャールズ2世の命でウインザー城の壁画、天井画を描くためにロンドンに招かれました。ウイリアム3世にハンプトンコートの装飾も任されました。

 サー・ゴドフリー・ネラーSir Godfrey Kneller)1646-1723
17世紀後半から18世紀前半にイギリスで活躍した肖像画家でチャールズ2世やジョージ1世の宮廷画家として仕えました。

 ウイリアム・ケント(William Kent)1685-1748
造園家、建築家、画家、家具設計家。風景式庭園を創造し、カントリーハウスの景観を設計しました。

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