2007年3月26日月曜日

サクソン時代の王様たち

写真はサクソン時代の王様が戴冠式を行っていたオール・セイント教会と、そのとき使っていた戴冠式の石です。ウエストミンスター寺院で戴冠式が行われるようになる前は、わが町キングストンでやってたんですね。

この石の上で戴冠式を行った王様は、エドバード(902年)、エセルスタン〈925年)、エドマンド〈940年)、エドレッド〈946年)、エドウィン〈956年)、エドワード〈975年)、エセルレッド2世〈979年〉の7人だそうです。

それでは、ちょっとサクソン時代の王様たちについて勉強してみましょう。

西暦3世紀ころ、ヨーロッパではゲルマン民族の大移動がおこり、その一部族であるアングロサクソン人〈青い目、金髪、長身)がブリテン島にも移住し始めます。ローマ人が撤退した後、5世紀から6世紀になると、ブリテン島に続々と押し寄せ、先住民のケルト人をスコットランド、ウエールズ、アイルランドに追いやりました。そのとき、勇敢にゲルマン人と戦ったブリトン人の勇士アンプロレウス・アウレリアヌスが、後にアーサー王の伝説として人々に伝わることになります。

アングロサクソン人は島のあちこちに国をつくり、6世紀末までには7つの王国(ケント、イーストアングリア、ノーサンブリア、マーシャ、エセックス、サセックス、ウェセックス)ができました。

8世紀末ごろから、ヨーロッパでは北欧一帯に住んでいたゲルマンの一部族であったデーン人(通称ヴァイキング)がブリテン島を荒らし始めます。やがて、その侵略は本格的になり、7王国の中のイーストアングリア、ノーサンブリア、マーシャ、ケントは次々にデーン人に占領されてしまいました。

ウェセックス王国のアルフレッド王も何回となくデーン人と戦い、最後にはデーン人を追い払い、協定を結んでデーン人の占領地〈イングランド北東部)との境界線を決めてエセックス王国を守り通すことができました。英国人はこの王のことをアルフレッド大王と呼んで歴史的英雄として尊敬しています。

そして、大王の息子のエドバートがキングストンの教会で最初に戴冠式を挙げるのです。そのうちデーン人の勢いが次第に弱まるにつれてウェセックスは逆に領土を広げていき、大王の孫のエセルスタンの時には、デーン人の土地はほとんどウェセックス王の支配下に組み入れられ、アングロサクソンによる統一イングランド王国が成立します。

エスルスタン王の後は兄弟のエドマンドとエドレッド、甥のエドウィンとエドガーに続き、比較的平和な時代が続きます。しかし、エドガー王の長男エドワード王が継母の手で殺され、異母弟のエセルレット2世が王位につくと、この王家の争いにつけこんで、機会を狙っていたデーン人が再び侵略を始めます。しかも今度はデンマークという国家組織を持った人たちでした。

王はフランスのノルマンディー公国からエンマ姫を王妃に迎え、その援助を借りようとします。王は国民からもたくさんの税金を取り立てて〈デーン税)、デーン人が攻撃をかけてくる度に多額のお金を支払ってその侵略を食い止めようとしますが、税に苦しむ国民には嫌われてしまいます。頼りにしていたノルマンの援助も、彼らが昔はデーン人だったため王の思い通りにはゆかず、王はとうとう妻の実家のノルマンディーに亡命し、その後イングランド全土はデンマーク国王スウェインの支配下になってしまいます。

幸いなことに、スウェイン王は翌年に亡くなり、デーンの軍隊も本国へ引き上げたので、エセルレット2世は亡命先から帰り、再び王制を回復します。それも束の間、1016年にはスウェイン王の次男のクヌートが大軍を率いて襲い掛かってきました。その中でエセルレット2世は寂しく世を去り、息子のエドモンド2世が即位しますが、彼もまもなく死亡します。こうやって187年続いたウェセックス王朝は幕を閉じたのでした。

この時エセルレット2世とエンマ王妃の間に生まれた幼い王子エドワードは母の故郷ノルマンディーに逃れ、26年後に再び祖国に帰り英国王として迎えられます。しかし、エドワードは幼いころからフランスで暮らしたため、アングロサクソンの風習に馴染まず、政治的には無能に近い王でした。一面、王は熱心なキリスト教徒で、ウエストミンスターに僧院を建て、その生涯を信仰に生きました。英国ではこの王のことをエドワード懺悔王と呼んでいます。彼がひとりの後継者も作らなかったことから、彼の死後、ノルマンの征服と呼ばれる大事件が起こることになるのです。

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