2016年1月27日水曜日

大英博物館で学ぶ日本の歴史 奈良時代 (710-794)


710年、元明天皇が都を奈良に移しました。新しい都は、唐の長安のように、街の北側に天皇の住む内裏(宮殿)と政府の建物を置き、その南に碁盤の目のような街路を造り、平城京と呼ばれました。


そのころのことは「あおによし 奈良の都は 咲く花の におうがごとく 今さかりなり」と万葉集に歌われています。万葉集は4500首の歌を集めた一大歌集で、歌人の作品ばかりではなく、地方の農民の素朴な感情を表した歌も多く納められています。万葉がな(漢字の音訓の組み合わせ)が用いられているのも特徴です。

国家の発展に伴って、朝廷がこの国を支配する由来を説くとともに、国の歩みを記すことを目的とした国史の編纂が行われるようになり、古事記〈712年)や日本書紀〈720年)が完成しています。



貴族は教養として、漢詩文を作ることを重んじられていました。751年には懐風藻という漢詩集がつくられました。



遣唐使によって唐の文化が伝えられ、当時の貴族たちは唐の進んだ文化を身につけることに大きな熱意を持っていました。奈良時代の文化は聖武天皇の時代(天平)に最も栄えたので天平文化と呼ばれています。唐の影響を強く受けた、仏教を中心とした文化で、華やいだものでした。

聖武天皇は、政治・社会の動揺を仏教の力によって鎮めようとして国分寺・東大寺を建立しました。校倉造りの正倉院(東大寺の蔵)には聖武天皇が使った品物、美術品、織物、楽器、家具、食器などが残されています。その中にはインド・イスラム・東ローマなどの流れをくむものも含まれています。

752年に完成した東大寺の大仏は高さが16mもあります。仏像は金銅像のほかに、塑像(木を芯にしてその上を粘土で固めたもの)や、乾漆像(粘土や木で大体の形をつくりその上に麻布をはって漆で塗りかためたもので、芯を抜くものもある)の技法が発達し、白鳳彫刻と比べて人間的・写実的な表現が見られるようになりました。


伎楽面 童子  700年




㙛仏 個人礼拝に使われたと思われます。

百万塔 称徳天皇の発願によって製作された100万個のろくろ挽き木製三重小塔。









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