2016年1月11日月曜日

イスラムの世界 ムハンマドの生涯

ムハンマド(マホメッド)の生涯
ムハンマドは西暦570年ごろサウジアラビアのメッカで交易商人の子として生まれました。当時のメッカは南アラビアと地中海を結ぶ交易路の中継地として栄えていました。街には各部族が独自の神々を奉るカーバ神殿があり、アラビア各地から巡礼者が訪れる宗教都市でもありました。
幼くして両親を亡くしたムハンマドは叔父に引き取られ、ラクダの世話や使い走りをして成長しました。仕事で得た報酬は叔父の家に納めるか、貧しい人々に分け与えました。彼は仲間に信頼されて、25歳の時には隊商のリーダーになりました。ムハンマドはそのころ年上の裕福な女性交易商人ハディージャと結婚します。
40歳までムハンマドは隊商の一員としてシリアまで出かけたり、町にいる時はカーバ神殿で宗教儀礼を欠かさない平凡な市民でした。生活は安定していましたが、生まれた3人の息子は次々と亡くなりました。まじめに生きているのに子供を奪われる不幸、貧富の差が激しいメッカの社会の矛盾、多神教への疑問、ムハンマドの悩みは尽きませんでした。
610年ごろ、ヒラ-山の洞窟で思索にふけっていると、突然、神の使いの声が聞こえました。ヒラ-山から逃げ戻ったムハンマドに、妻ハディージャはその声の主が唯一絶対の神アッラーに使わされた大天使ガブリエルだと断言しました。妻に励まされたムハンマド゛はその後も洞窟で大天使の声に耳を傾け続けました。「アッラーのみが唯一の神であり、アッラーの前ではすべての人間が平等だ」という言葉を完全に理解できるようになったころ、ムハンマドは預言者として生きることを決心しました。
啓示から3年後にムハンマドは本格的な布教活動を始めます。メッカの人々が古来崇拝してきた神々と、町の繁栄を担ってきた支配者や商人を否定する教えは人々に無視されましたが、それでも貧しいものたちを中心に彼の言葉に耳を傾ける者が現れました。信者の数が増えてくると、今度は暴力による迫害が始まりました。619年、追い討ちをかけるようにムハンマドの妻と叔父が相次いで亡くなります。
悲嘆にくれたムハンマドはまた神の声を聞きます。そして大天使ガブリエルに導かれ、メッカからエルサレムは天馬で飛び、神々が創造した7つの天国を巡り、アブラハム、モーゼ、イエスというかつての預言者たちと出会う夢を見て、神の存在と自分の使命を再確認します。
622年ムハンマドは信者と迫害が続くメッカからメディナへ移住しました。(ヒジュラ暦と呼ばれるイスラムの暦はこの年を紀元にしています。1年354日、一日の始まりは日没からで、月と季節は毎年ずれていきます。)メディナでは、最初のモスクを建造して、信者の共同体(ウンマ)を建設しました。当初の信者は150人ほどでしたが、部族間の内戦を収め、政治的手腕を発揮します。
624年には戦闘的リーダーとしてメッカの軍隊と戦います(ジハード)。戦闘の間にムハンマドは周辺の土地を征服、630年にはムハンマドの軍隊は1万人の大軍になり、ついにメッカも征服します。彼はメッカの人々にアッラーのみを崇拝することを誓わせ、カーバ神殿の中に神として奉られていた偶像をすべて破壊しました。そしてメッカはイスラム教の聖地となりました。(現在カーバ神殿は黒い布で覆われ、中にはムハンマドが置いたといわれる黒い石がはめ込まれています。信者は一日5回、この神殿に向かって礼拝します。)
632年6月ムハンマドは亡くなります。預言者は死んだ場所に葬られるとの神の言葉に従い、ムハンマドの遺体はメディナに埋葬されました。現在その場所にはモスクが建てられています。
ムハンマドが没するとアラブ部族は次々と離反しイスラム共同体は解体の危機に瀕します。しかしカリフ(後継者)たちによって、離反者を討伐するとともに、アラブ部族のエネルギーをイラクやシリアなどへの征服活動を振り向け、東ローマ帝国を破ってシリアとエジプトを奪い、ついにはササン朝ペルシャを滅ぼし、領土を併合します。
そこに新しいイスラム帝国(ウマイヤ朝)が建設され、ペルシア文化とビザンチン文化を継承したイスラム独自の華やかな文明が形成されていきます。8世紀にアッバース朝ができる頃には、イスラム世界はアフガニスタン、イラン、イラク、シリア、エジプト、北アフリカを経てスペインにまで広がりました。

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