2016年1月16日土曜日

V&A ファッション・ギャラリー (1940-60) サンローラン、ディオール、ジバンシーなど


マイケル・シェアードのイブニング・ドレス(1958)

ノーマン・ハートネルの舞踏会用ドレス (1953)
1927〜30年にパリコレクションに参加。1930年には直営店をロンドンのメイフェアに開き、ブライダルからウェア、香水、靴、毛皮、紳士服、宝石、既製服まで幅広い取り扱いました。1947年に女王エリザベスⅡ世のウエディング・ドレス、1953年には戴冠式のコロネーション・ガウンを手がけ、英国王室御用達のドレスメーカーとして地位を確立。王室への50年にわたる貢献がイギリスのファッション界に影響を与えています。

ジャック・グライフのイブニング・ドレス (1951)

イヴ・サン・ローランのイブニングドレス(1960)
1936年、アルジェリアの中産階級の両親の家庭に生まれ、子供の頃パリへ引っ越しました。17歳でファッション学校に入学。デザイン・コンクールで最優秀賞を受賞しました。独創的かつ想像力に富んだ彼のデザインは、ディオールに感銘を与え、ディオールの死後、21歳でディオール・ブランドの主任デザイナーとなりました。1962年、独立して「イヴ・サンローラン(YSL)」を設立しました。カトリーヌ・ドヌーブの出演映画『昼顔』の衣装もデザイン。彼女はサンローランの香水や化粧品のイメージ広告モデルになっています。ヨーロッパの上流階級に絶大な人気を得ました。
1989年、パリ証券取引所に株の公開をしますが、2001年にグッチ・クループによって会社が買収され、翌2002年に引退。その後マラケシュに移住、2008年にガンのため逝去。

ピエール・バルマンのイブニング・ドレス (1954)
1914年フランス、サヴォワ生まれ。父は紳士服の卸業を運営、母はブティックを経営。パリ国立美術学校で建築を学んだ後、幼少時から身近にあった、ファッション、モードの道に進みます。1945年に独立して自身の名を冠したメゾン「ピエール・バルマン」を開設。終戦後で、素材の調達、資金面でも非常に苦しい時期ではあったが、両親などの援助を受けながらコレクションの発表を続けます。ピエール・バルマンのコレクションの特徴は、シンプルでクラシカルなデザイン。顧客には女優のエヴァ・ガードナー、ヴィヴィアン・リー、マレーネ・ディードリッヒ、ブリジッド・バルドーなど当時の大女優のドレスを手がけました。映画や舞台の衣装も積極的に手がけ、舞台演劇の世界では最高の賞であるトニー賞の衣装デザイン賞を受賞しました。バルマンは香水のクリエーションも始め、初の香水はアトリエの住所からネーミングした「Elysees 64-83.」でした。その他にも事業展開を拡大、現在は時計やアクセサリーラインのバッグや財布、ネクタイなどを展開している。1982年、ピエール・バルマン死去。

マダム・グレのイブニング・ドレス(1950)
1942年のパリに「グレ」という名のデザインハウスを設立。グレの作品の特徴は、デザインの生地部分を表面へとさらけ出しながらもなお古典的でかつ洗練された感覚を残した裁断です。ウォリス・シンプソン、マレーネ・ディートリッヒ、グレタ・ガルボ、ジャクリーン・オナシスにファッションを提供。グレはデザインハウスにおいて大きな成功を収めました。

クリスチャン・ディオールのドレス (1947) 
1905年、ノルマンディーの肥料の生産事業を行う裕福な家庭に生まれます。5歳のころに、一家はパリへと移住しますが、夏の休暇のたびにノルマンディー の海岸へと戻っていました。パリ政治学院で学びますが、彼自身は芸術に強い興味を持っており、1928年にアートギャラリーを親からの出資で持ち、パブロ・ピカソなどの絵を置きましたが、3年後、世界恐慌によって彼の父親がその資産を失ったことを受けて、ギャラリーも閉鎖を余儀なくされます。1946年、ディオールは自身のクチュールメゾンをパリに立ち上げます。このコレクションには『コロール』Corolle (「花冠」を意味する植物学由来の言葉)の名前が付けられていましたが、New Look というフレーズで知られています。いずれにしろ、ディオールの「ニュールック」は女性の服装に革命を起こし、また、第二次世界大戦後のパリを再度ファッションの中心地として復興させました。 戦後のファッションの指針を示したディオールは47年から57年までの11年間、パリのオートクチュールの頂点に君臨します。休暇先のイタリアで急死しました。























 
 ジャック・フェース(1950)

ユベールド・デ・ジバンシー(1955)
1927年、パリ郊外のボーヴェ生まれ。古い由緒ある貴族家系出身で父親は公爵の称号を持つ。ロベール・ピゲ、ジャック・ファットのメゾンを経で修行を積み、1952年、ジバンシィ社を創立。1954年、オードリー・ヘップバーン主演の映画「麗しのサブリナ」の衣装を手がけ、「ティファニーで朝食を」「おしゃれ泥棒」などで衣装を提供しました。「自由なライン」として発表したウエストもヒップもないシュミーズドレスが「革命的な衣装」として反響を呼びます。1962年に香水を発表。1995年、引退。
2008年、マドンナがワールドツアーにて、ジバンシィのドレスを着用して話題となる

クリストバル・バレンシアガ(1959)
1895年、バスク地方にあるビスケー湾に面した漁村に生まれました。母親は裁縫師で、幼少は作業を行う母親の下で過ごしました。12歳の時に洋裁師見習いとして働きはじめました。1919年にサン・セバスティアンにブティックを開店させ、マドリードとバルセロナにも支店を開きました。スペイン王室と王侯貴族が顧客となりましたが、1936年に勃発したスペイン内戦の影響でこれらの店を閉め、バレンシアガはパリに移住しました。1937年8月にはパリのジョルジュ・サンク通りにクチュールメゾンを開店させ、メゾンはこれ以来パリを本拠地としました。
1955年発表のチュニック・ドレスや1957年のサック・ドレスなど、平面的なフォルムの作品を発表、多くの支持を得ました。1960年にはベルギー王妃ファビオラのウェディングドレスを制作しました。
1968年、74歳のバレンシアガはパリ、バルセロナ、マドリード、その他の店を閉めて引退し、1972年に死去しました。今日、バレンシアガの高級服店はグッチ・グループの所有の下で営業を続けています。

クリストバル・バレンシアガ(1954)

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