2018年9月2日日曜日

レーニンの家 in ロンドン(16 Percy Circus)(36 Tavistock Place)


 1905年に住んでいた家(16 Percy Circus). 

 
 1908年に住んでいた家(36 Tavistock Place)

レーニンはロンドンへ6回来ています。当時まだ入国にパスポートの必要がなく, ロンドンはスイスとともに、 亡命者に恰好の場所でした。

1902年4月から約1年、 「イスクラ」編集局がロンドンにあった期間です。
 30Holford Squareにあった下宿は第2次大戦の爆撃で破壊されて残っていません。
1903年夏、 ロシア社会民主労働第2回党大会のとき。
1905年春、 第3回党大会のとき。
1907年春、第5回党大会のとき。
1908年5月から1ケ月あまり, 「唯物論と経験批判論」の資料集めのため.。
1911年11月に2週間, 在ロシア人労働者を対象にした講演のため。


レーニンというのはペンネームで「レナ川の人」の意味。本名はウラジミール=ウリヤーノフ。1870年、物理学者の息子として生まれます。レーニンはカザン大学に入学して古典言語を専攻しました。16歳のとき、父が脳出血で亡くなり、17歳の時、兄がアレクサンドル3世の暗殺計画に加わった容疑で絞首刑にされました。同じく疑いが掛けられた姉は追放処分を受けます。 レーニンも学生運動に参加して暴動行為により警察に拘束され、大学から退学処分を受けます。
マルクス主義運動家として活動を始めますしはじめ、25歳の時に労働者階級解放闘争同盟を結成しますが、逮捕され、シベリア流刑になります。1898年、現地の女革命家のクルプスカヤと結婚します。1900年にスイスへ亡命しました。

1902年には『何をなすべきか?』を著し、少数の職業的革命家からなる中央集権的な革命政党が労働者を指導すべきであると主張しました。
1903年、ロシア社会民主労働党のロンドン大会にスターリンも参加しました。
1916年には『帝国主義論』を著し、資本主義社会の矛盾点を明らかにした。
1917年、ロマノフ朝のツァーリ専制政府が倒れ、亡命先からロシアに戻りました。

1922年 ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立。
1924年 病死。遺体はモスクワ赤の広場の廟に安置されています。

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