2018年9月30日日曜日

産業革命(綿織物)

 産業革命のきっかけは、17世紀にインドから輸入されるようになったキャラコ(綿布)でした。イギリス議会は毛織物保護のためにインド産キャラコの輸入を禁止したので、ランカシャーで西インド諸島産の綿花を原料とする綿布の生産が始まりました。

飛び杼の発明によって綿織物の生産量が急速に増えました。今度は原料となる綿糸が不足したので、ジェニー、アークライト、ミュールが紡績機を相次いで発明しました。カートライトによって蒸気機関を使った織機が開発され、大量の織物が生産可能になりました。

ジョン・ケイの飛び杼=フライング・シャトル(1733年)

 
 ジェニー紡績機(1764年)

 アークライトの水力紡績機(1769年)

カートライトの力織機(1785年)

2018年9月29日土曜日

産業革命(蒸気機関)

海外進出や工業化の進む中、造船や製鉄のために豊富な石炭や鉄鉱石など地下資源の需要が増えました。鉱山や炭鉱での採掘が進むと、湧き出してくる地下水に悩まされました。そこで、企業家ニューコメンは蒸気機関を利用した揚水ポンプを開発したのでした。

ニューコメンの蒸気機関(1712年)
石炭でボイラーを熱し、発生した水蒸気の力でピストンを押し上げます。 冷水をシリンダーに吹き込んで冷やし、蒸気が水に戻るときに生じる減圧でピストンを下げます。

ワットの蒸気機関(1787年)
ニューコメンの蒸気機関の修理を頼まれ、改良したのがきっかけです。ピストンの上下運動を回転運動に転化することによって、蒸気機関は水力や馬力に代わって工場機械の動力源となりました。

2018年9月28日金曜日

産業革命 (蒸気機関車の誕生)

動力を蒸気機関にしたことにより、都市近郊に大規模な工場が建設され、それに伴い原料・燃料・製品を輸送する交通機関の改良が必要になりました。当時は運河が使われていましたが、19世紀になると鉄道に代わります。


トレビシックの蒸気機関車(1804年)
最初の蒸気動力による機関車がレールの上を走行したのは、南ウエールズのペニダランという町にあった鉄工所の構内でした。歯車で車輪を駆動するといった形態でしたが、時速6キロ程度で動くことができました。しかし、鋳鉄製のレールは機関車の重さを支え切ることができずに割れてしまい、機関車を継続的に使うことはできませんでした。

スチーブンソンのロコモーション号(1825年)
ダーラムにあるストックトン~ダーリントン間に蒸気機関車による鉄道が営業開始されるのに先立ち制作しました。時速20キロで運転できました。「ロコモーション号」は現在もダーリントン駅構内に大事に保管されています。

スチーブンソンのロケット号(1829年)
リバプールマンチェスター鉄道に採用する蒸気機関車を決めるトライアルで優勝した機関車です。ロケット号は20tの列車を平均速度22キロで牽引し、単機運転時の最高速度は50キロというすばらしい成績で優勝し、翌年、世界初の蒸気機関車による公共鉄道の開通。本格的旅客輸送のための鉄道の誕生しました。

2018年9月27日木曜日

産業革命が資本主義社会と社会主義思想を生んだ

産業革命
工業の急速な発展によって生産性が増し、資本主義社会が進みました。



資本主義社会
産業革命は安い賃金で過酷な労働を強いられる労働者階級を生み出し、貧困層の拡大、都市におけるスラム化、公害、犯罪の増加など社会問題を引き起こしました。



社会主義思想
資本主義社会が発達すると、経済的不平等などの問題が浮き彫りになりました。私的所有権を廃止し、労働者が共同連帯することで、平等な社会の実現を目指す人が現れました。

2018年9月26日水曜日

ヴィクトリア時代の出来事

1837年
ヴィクトリア女王が即位
蒸気機関車(都市間交通の発展)

1840年
ヴィクトリア女王とアルバート公の結婚
世界初の切手(ペニー・ブラック)発売
鉄道路線の時刻表にグリニッジ標準時が用いられる

1843年
テムズ川の両岸を結ぶトンネルが開通
「クリスマス・キャロル」チャールズ・ディケンズ著

1844年
米国のモールスが電信の実験に成功

1845年
アイルランドで大飢饉となり、多くの移民がアメリカなどへ移民

1847年
ロンドン動物園一般公開
労働時間短縮のための法律「10時間法」が成立
「嵐が丘」エミリー・ブロンテ著

1848
キュー・ガーデンにパーム・ハウス(温室)
ラファエル前派結成

1849
チャールズ・ハロッドがロンドンで食料雑貨店を開店

1851年
万国博覧会

1852年
サウス・ケンジントン博物館(V&A)がオープン
環境汚染の悪化に歯止めをかけるための水道法公布

キングスクロス駅の建設工事始まる



1853年

ロンドン動物園に世界初の水族館誕生(ガラス製の水槽による展示



1854年

コレラが流行
パディントン駅の建設工事始まる

1855年
ロンドン市内に郵便ポストが登場

1856年
クリノリン(スカート下のペチコート)が大流行

1857年
科学博物館がオープン

1858年
東インド会社が解散になる
テムズ川の汚染が原因で市内が悪臭に覆われる事態となる(環境汚染深刻化)
医師の資格を国が法律で指定(医師法)

1859年
テムズ川沿いにロンドンのシンボルとなる時計塔(ビッグベン)完成
ウィリアム・モリスの「レッド・ハウス」完成し、アート&クラフツの運動が始まる
ダーウィンが「種の起源」を発表し、進化論論争が始まる

1860年
フローレンス・ナイチンゲール看護師助産師学校設立
世界最古のゴルフ大会「全英オープン」開催

1861年
王立園芸協会設立
アルバート公死去
モリス商会創業

1862年
王立園芸協会主催の「チェルシー・フラワー・ショー」開催

1863年
世界初の地下鉄がパディントン - ファリンドンで開通
フットボール協会が誕生し、ルールの統一がなされ近代サッカー誕生

1865年
ロンドン市内で下水道の整備工事始まる(1867年に完成)
「不思議の国のアリス」ルイス・キャロル著

1866年
コレラの流行

1868年
セント・パンクラス駅の建設工事始まる

1869年
スエズ運河開通

1870年
初等教育法制定

1871年
労働組合法制定・社会主義思想の拡がりもあり、世界に先駆けて労働組合を合法化
ロイヤル・アルバート・ホール完成
紅茶専門店リプトンが開業
「鏡の国のアリス」ルイス・キャロル著

1875年
リバティー創業

1876年
ベルが電話の特許を取得

1877年
ヴィクトリア女王がインド帝国皇帝になる
テニス選手権「ウィンブルドン選手権」開催
エジソンが蓄音機の特許を取得

1879年
エディソンが白熱電灯を発明

1881年
自然史博物館がオープン

1883年
王立裁判所が完成

1885年
自転車が普及

1886年

小説「ジキルとハイド」ステーヴンソン著



1887年

シャーロックホームズ「緋色の研究」アーサー・コナン・ドイル著


1888年

ダンロップが空気入りタイヤを発明

1890年

第一回メイデー開催

1891年

公初等教育の無償化

1894年

ハロッズ・デパートが営業開始

タワーブリッジ完成


1896年
ダイムラーが自動車の製造を開始

1898年
ハロッズに英国初のエスカレーター設置

1901年
ヴィクトリア女王が崩御

2018年9月25日火曜日

当時の世界情勢

フランス
1830年 7月革命
1848年 2月革命
1870年 普通戦争

ドイツ
1871年 ドイツ統一

イタリア
1861年 イタリア統一

ロシア
1853年 クリミア戦争

オスマントルコ
1853年 クリミア戦争

アメリカ
1861年 南北戦争

日本
1867年 明治維新
1867年 明治維新

2018年9月24日月曜日

その頃、ロンドンに住んでいた日本人

伊東博文
1863年に井上馨の薦めで海外渡航を決意、長州ファイブの一人として渡英しました。到着後、ウイリアムソンの邸に滞在し、英語を学ぶと共に博物館・美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めました。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じます。翌年、米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨と共に急ぎ帰国しました。
 
薩摩藩

1865年、選抜された19人の学生たちはトーマス・グラバーの船で密航出国しました。
到着後、3か月の語学研修ののち、ロンドン大学ユニバーシティーカレッジの法文学部聴講生として入学し、先に入学していた長州藩の2名とともに学びました。年少の長沢はアバディーンのグラバーの家に預けられ、地元の学校に通いました。ロンドン大学では英国軍事学の基礎とも言える歴史・科学・数学などを学び、約半数が経済的理由により一年後の1866年夏に帰国しました。

夏目漱石
1900年、文部省より英語教育法研究のため英国留学を命じられます。ロンドン大学ユニバーサルカレッジの講義は授業料を払う価値なしとして英文学の聴講をやめて、シェイクスピア研究家のWilliam James Craigの個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだりしましたが、英文学研究への違和感で神経衰弱に陥り始めます。1901年、化学者の池田菊苗と2か月間同じ下宿で過ごしたことで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭し始めますが、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま送り、下宿屋の女性主人が心配するほどの神経衰弱に陥ったので、1902年、急遽帰国を命じられました。

2018年9月23日日曜日

その頃、ロンドンに住んでいた外国人

クロード・モネ
1870年、普仏戦争が勃発すると、モネは兵役を避けるため、ロンドンに渡りました。同じ時期、ピサロもロンドンに逃れており、2人は風景画の第一人者であるターナーやコンスタブルの作品を研究しました。ターナーの描く霧の風景や、コンスタブルの描く雲の風景は、印象主義の発展に影響を与えました。ロンドンでは数点しか制作しませんでした。翌年、パリに戻りました。

マハトマ・ガンジー
1887年、18歳でロンドンに渡り、法廷弁護士になるため、インナー・テンプル法学院に入学。

2018年9月22日土曜日

マルクス主義について

マルクス主義とは、 私有財産制の否定して、共有財産制の実現によって貧富の差をなくそうとする思想のことです。

資本主義の発展



貧富の差の拡大



資本家と労働者の対立



労働者による革命



社会主義に基づく平等な社会


2018年9月21日金曜日

マルクスとエンゲルス (若きカール・マルクス)

1818年(0歳)ユダヤ人弁護士の家庭に生れ、ボン大学、ベルリン大学で法律を学ぶ。
1842年(24歳)ケルンの急進的ブルジョアの機関紙「ライン新聞」の編集長になります        が、プロイセン政府攻撃の姿勢を明確に出したため発禁になりました。
1843年(25歳)結婚したばかりの妻ジェニーとパリに移住します。
1844年(26歳)「独仏年誌」を発行。 社会主義的傾向を深めました。
1845年(27歳)ブリュッセルに移住。
1847年(29歳)秘密結社「共産主義同盟」を結成。ロンドンの会議にに参加。
1848年(30歳)エンゲルスとともに「共産党宣言」を執筆。
1848年(30歳)ケルンに移住。「新ライン新聞」を発行してドイツの革命運動の促進。
1849年(31歳)プロイセンからの追放。ロンドンに亡命。
 
19世紀初頭絶対王政下のプロイセン(現在のドイツ)、多くの貧困と差別があちこちで見られ、森を多くの貧しい人々が逃げ回り、官吏たちが馬に乗って森を駆け巡ります。
女性も子供も容赦なく暴力で打ちのめし、多くの民たちは木々の下で息が絶えていきます。ライン新聞社の部屋では、たくさんの記者が息を上げて、意見を交わしています。
カール・マルクスが書いた『木材窃盗取締法』に対する告発文が槍玉に上がっていました。当局の怒りを買うだけだというのが、大多数の意見でした。マルクスの言論の封殺を恐れず、公然と国家を告発する姿勢は当局の取締の対象となり、すでに、階下に多くの官吏がやってきます。マルクスを筆頭に全員が捕まり、新聞は発禁になります。

マルクスはドイツを離れ、フランスのパリを目指します。

イギリス、マンチェスターの紡績工場主を父に持つフリードリッヒ・エンゲルスは、父の専制的な経営方針に疑問を持ちながらも、代理者として工場を管理する日々を送っていました。ある日、一人の女工員が居眠りをして機械で指を切断するという事故が起こり、労働者たちと話し合いをする機会に立ち会いました。工場長は、オーナーの父親に問題を先導する女工員がいることを耳打ちします。案の定、彼女がリーダーとなって、昼夜働かせて三日三晩寝ていないこの状態を改善してほしいと訴えます。オーナーは「規律を乱すものは全員出て行け」と言い放ち、その女メアリー1人が出て行きました。エンゲルスは父親にやりすぎだと告げ、女の後を追いかけます。

メアリーが向かったのは、アイルランド人の住む貧民街でした。娼婦、お金を乞う子供、酔いつぶれた男。異様な目つきで見られながらも奥のバーに進みます。そこでメアリーは仲間とお酒を飲んでいました。「おぼっちゃまが来るところじゃないよ。」と言われながらも、仲間とともにエンゲルスはお酒を組み交わす日々が続き、次第に労働者階級への理解と慈愛を深めていきました。
 
マルクスは、パリで妻イェニーと娘とともに慎ましいながらも、幸せな日々を過ごしていました。赤ん坊の泣き声が響き、妻が子どもを抱きかかえながら朝食の用意を始めます。
イェーニーはかつてプロイセンの男爵令嬢でしたが、本人にとってブルジョアの生活に生きる喜びを見出せないと感じ、カールと人生をともにする思いでパリにやってきました。

マルクスは革命家の先鋒プルードンの噂を聞き、演説を聴きにいきました。しかしプルードンの“所有”についての部分は、抽象的で曖昧な言葉でしか表現しておらず、保身に走っているように思え、マルクスは幻滅し家路に着きます。

生活も困窮を極める中、マルクスは郵便局の雑用の仕事に面接に行きますが、門前払いを受けました。マルクスは心身共に追い詰められていました。

マルクスは何度も原稿を書いているのに、まだ原稿料をもらっていなかった革命家の友人に会いに行きます。 マルクスはエンゲルスと運命的な再会を果たしました。
ベルリン当時マルクスは彼を空想的な社会主義者と思い、エンゲルスも良い印象を持っていなかったようでした。エンゲルスはマルクスの著書に感銘を受けたと話し、マルクスはエンゲルスの発表した論文を絶賛します。すぐに2人は意気投合し、夜中待ちを見張る警察から逃れ、マルクスの家でワインを飲み明かし、永遠の友であり、理解者を得た夜となりました。

その後、プロイセン国王の暗殺未遂事件が起こり、ヨーロッパは大きな変革の波が渦巻いていました。マルクスとエンゲルスは時間を忘れて執筆に没頭し、共著『聖家族』を出版させます。 当時の中心となっていたヘーゲル青年党を批判し、労働者たちに表面的には支持されている手応えがあったものの、エンゲルスは自分の立場が支配階級でありながら労動者たちの中で共産主義(ここでは、私有財産を無くし、すべての財産を共有することによって貧富のない社会を実現しようとする思想)を啓蒙するという矛盾に悩みます。


更にパリから2人は追放され、ベルギーのブリュッセルに移ります。

マルクスの妻イェーニは2人目の娘ができたことを喜んで報告し、エンゲルスの妻メアリーと同じ理想を持ち、マルクスを支え続けていました。

ある日、今やヨーロッパで最も影響力のある革命家ヴァイトリングが組織する正義者同盟から連絡が入ります。マルクスとエンゲルスはロンドンを旅立ち、正義者同盟の面談に臨みました。その面接で真っ向から批判を浴びせるマルクスとエンゲルスでしたが、委員会と落とし所をお互いに見出し、正式加入を認められました。委員会演説のある日、エンゲルスの発言を発端に多数決の結果、“共産主義同盟”としてスタートを切り、労働者たちの熱い支持と自分たちの宣言の必要性を感じていました。プルードン、ヴァイトリングは勢いを失い、共に新たな時代の流れを2人は感じ取っていました。

来る日も来る日も執筆を続けるマルクスとエンゲルス。マルクス、イェーニ、エンゲルスとメアリーの4人が部屋で嬉しそうに話しています。「ここは幽霊だな。」言いながら、マルクスが言葉を書き直しました。「ヨーロッパに幽霊が出る、共産主義という幽霊である。」という冒頭で始まる『共産主義宣言』が完成した瞬間でした。

2018年9月20日木曜日

旧レッド・ライオン・パブ 20 Great Windmill Street


1847年、グレート・ウインドミル・ストリートにあったレッド・ライオンというパブの2階で、共産主義者の国際会議が開かれ、その会議にはプロイセン王国から追放されベルギーに亡命していたマルクスとエンゲルスも参加しました。現在はナイト・クラブ。

2018年9月19日水曜日

聖アン教会 (ソーホー)

1686年建設。教会ができた頃のソーホーはフランスからユグノーが移住しフランス人地区として知られていました。18世になるとあらゆる国籍の外国人がソーホーにやって来て、人口は3万人になり、19世紀半ばにはロンドンでも最悪のスラム街となりました。19世紀はじめの教会の記録によると埋葬された人の半分が5世未満の子供だそうです。
チャーリングクロス・ロードは1880年、シャフツベリー・アベニューは1886年に建設。
教会の建物は第2次大戦の時、爆撃で壊されました。現在ソーホー協会が所有しています。

2018年9月18日火曜日

マルクスの家①(1851-1856) 28 Dean Street W1 3DE


マルクスは1849年8月27日に船に乗り、イギリスに入国しました。入国した時には一時的な避難場所のつもりでしたが、 ロンドンがマルクスの終生の地となります。

イギリスに到着したマルクスは最初に家具付きの立派な家を借りましたが家賃を払えなくなり、マルクス一家は貧困外国人居住区だったソーホーに部屋を賃借りしての生活を余儀なくされました。
生計はエンゲルスからの定期的な仕送り、友人への金の無心、金融業者から借金、質屋通い、アメリカの新聞への寄稿でなんとか保ちました。
 
当時のソーホーは不衛生で病が流行していたので、マルクス家の子供たちもこの時期に5人中3人が命を落としました。
 
それでもマルクスは毎日のように大英図書館に行き、そこで朝9時から夜7時までひたすら勉強していました。

1851年(33歳)マルクスはお手伝いさんのへレーネに手を出し、男の子を出産。エンゲルスがこの男子の親権を取得し、フリードリッヒと名付けられました。

2018年9月17日月曜日

ジョン・スノーの家&井戸があったパブ

 マルクスの家の裏にはドクター・ジョン・スノーが住んでいました。
 
1854年にコレラが流行しました。当時、コレラは空気感染すると考えられていました。しかしスノーは同じ流行地域でも患者が出る家は飛び飛びであるなどの理由から空気感染説に疑問を持ち、汚染された水を飲むとコレラになるという経口感染仮説を立て、疫学的調査を行いました。



1854年8月、スノーはコレラ患者が多量発生したブロード街に行って患者発生状況の調査を行い、死者(黒点)の分布から規則的なパターンから、コレラの原因がブロード街にある井戸 (Pump) であると推測しました。

行政がこれに従い問題の井戸を閉鎖したため、流行の蔓延を防ぐ事ができました。

 
スノーの疫学的研究は、感染源と感染経路の解明という疫学的手法により、病原体などが不明であっても、社会的要因、状況の観察から、感染症流行を止めることができることを証明したのでした。

2018年9月16日日曜日

大英図書館のリーディングルーム

大英図書館閲覧室であるリーディングルームは、シドニー・スマークの設計によって1857年にオープンしました。高さ32m、直径42mのドーム天井で、375の座席と、3万冊の開架図書がありました。


リーディング・ルームを使用するには申請が必要で、リーダーズチケットを持った人だけが使用が許されていました。マルクスは毎日大英図書館に行き、そこで一日中勉強していました。「資本論」をはじめとする主要な著作は、大英図書館の資料を基に作成されています。   


リーディングルームは、2000年から2007年まで一般公開がされていましたが、2008年からは特別展示室となり、特別展開催時のみ有料で入場できます。

2018年9月14日金曜日

マルクスの家② (1856-1864)  46 Grafton Terrace NW5 4HY  


1855年春に妻の伯父、1856年夏に妻の母が相次いで亡くなり、遺産の一部を相続したため、マルクス家の家計は少し楽になります。 

マルクス家はロンドン北部グラフトン・テラス46番地へ引越しました。当時この周辺は開発されていなかったため、不動産業界の評価が低く、安い賃料で借りることができました。ジェニーはこの家について「これまでの家と比べれば、新しい家はお城のようでしたが、足の便の悪い所でした。ちゃんとした道路がなく、雨の日はブーツが泥だらけになりました」と語っています。 
 
マルクス夫妻、3人の娘さん、マルクスが手を出して息子を産ませたというお手伝いさんと6人で住んでいました。大英図書館まではバスで20分ぐらい。資本論第1巻はこの家で書きました。

郊外に引っ越してもマルクス家の金銭的危機は続きました。1857年にはじまった恐慌で、エンゲルスの給料が下がったうえ、原稿数も減り収入が半減しました。1861年に『ニューヨーク・トリビューン』から解雇されると困窮が深刻化しました。金融業者と質屋を回る生活が続き、終わる気配のない困窮状態に夫婦喧嘩が絶えなかったようです。

2018年9月11日火曜日

ウエストミンスター寺院の中庭

私は「秘密の花園」って感じがするウエストミンスター寺院の中庭が大好きです。

すぐ隣に国会議事堂の建物が見えます。この庭は「ダヴィンチ・コード」にも出てきますよね。

ツアー・オブ・ブリテン 2016

自転車のロード・レース。

ツール・ド・フランスの

イギリス版がツアー・オブ・ブリテンです。

 最終ステージは、ロンドンで行なわれ、


ロンドン中心部の道路は通行止めになります。



平坦な道路をぐるぐる走るだけなので、

 見ている人は飽きるかもしれませんが、


近くで自転車競技を見たい人にはいいかもしれません。

マルクスの家③ (1864-1875) 1 Maitland Pak Road NW3 7EX  

1863年にマルクスの母ヘンリエッテが死去し、その遺産で1864年3月にメイトランドパーク・モデナ・ヴィラズ1番地の一戸建ての住居を借りました。家賃はこれまでの住居の倍でしたが、妻はこの家を「新しいし、日当たりもいいし、風通しも良い住み心地のいい家」と絶賛しています。


1864年には友人からも遺産を譲り受け、急に金回りが良くなったマルクス一家は浪費生活を始めました。 パーティーを開いたり、旅行に出かけたり、子供たちのペットを大量購入したり、アメリカやイギリスの株を購入したりしました。

しかし、このような生活を続けたため、すぐにまた借金が膨らんでしまいました。再びエンゲルスに援助を求めるようになり、結局1869年までにエンゲルスがその借金を肩代わりすることになりました。

2018年9月10日月曜日

マルクスの家④ (1875-1883) 41 Maitland Pak Road NW3 7EX


57歳の春にメイトランド・パーク・ロードの41番地に引っ越しました。以降マルクスは64歳で亡くなるまでの8年間ここを自宅とします。

63歳の時、マルクスは妻と共もにパリで暮らす長女と次女を訪ねました。パリから帰ってすぐ、妻ジェニーが亡くなります。翌年、長女ジェニーが病死しました。同じ年の3月14日の昼頃に椅子に座ったまま死んでいるマルクスが発見されました。

2018年9月9日日曜日

エンゲルスの家 122 Regents Park Road NW1 8UG.


エンゲルスは、1820年にドイツ西部の繊維産業都市バルメンの紡績工場主の息子として生まれました。 父フリードリヒは二人のオランダ人と紡績企業「エルメン&エンゲルス商会」を設立し、事業を拡大させ、マンチェスターへと進出していました。

エンゲルスは17歳から家の仕事を手伝い、麻や綿の素材の性質や漂白と染色、紡績や織機に関する知識を教え込まれました。18歳で絹の販売と生糸の調達の現場を見るため父とマンチェスターに出赴き、商売のスキルを叩き込まれました。貿易港ブレーメンのロイボルド商会で見習い事務員として働き、輸出入や関税・為替など外国貿易に関わる諸々の業務を習得しました。

1842年、22歳の時、 エンゲルスはべルリンからの帰郷の途上『ライン新聞』の事務所に立ち寄り、そこでマルクスと初めて会いました。

父フリードリヒは息子の急進的な思想に危機感を感じ、再び家業を任せて現実的で堅実な生き方ができるよう、「エルメン&エンゲルス商会」のソルフォード支社を管理する立場に据えることにしました。

マンチェスターで実業に携わりながら、「イギリスにおける労働者階級の状態」を執筆。

1844年、24歳の時、パリでマルクスに再会する。マルクスとエンゲルスは終生変わらぬ友情と協力関係を築いていくようになる。

1845-47年にかけて二人はブリッセルに移って近くに住み「共産党宣言」をマルクスとともに共同起草しました。

1847年6月、共産主義者同盟ロンドンで大会を開催に参加してマルクスとエンゲルスは同盟の新会員となり、エンゲルスはパリ支部の代表に就任しました。

1848年、ドイツの3月革命において、エンゲルスは義勇軍に参加しましたが、敗れ、1849年にロンドンに亡命しました。

エンゲルスの両親は、革命運動に傾倒し、逮捕状が出され追われる身となった息子への金銭援助を止め、エンゲルスはプロイセンのスパイに監視される中で貧困生活に耐えることになります。

しかし、エンゲルスもついに音を上げて、自身と友人マルクスを救うために、渋々家族に頭を下げて仕事の面倒を見てもらうことにしました。父も息子の復帰は家業のためになるとして息子の要望を受け入れます。

エンゲルスは工場のあるマンチェスターで家業「エルメン&エンゲルス商会」に復帰しました。1850年から1860年までは一般社員、1860年から1864年までは業務代理人、そして1864年から1869年は支配人として勤め、共同経営者の地位にまで上り詰めました。最終的に年1500ポンドを稼ぐ富裕な中流階級の名士となり、馬を所有して、キツネ狩りを楽しみ、名門クラブの会員となっていました。 このようなマンチェスター時代の「二重生活」は、約20年間に及ぶこととなりました。

エンゲルスは報酬の半分以上を浪費癖の治らないマルクスに送金しました。マルクスは新聞への寄稿の謝礼に加えてエンゲルスからの送金で窮地を脱し、惨めなソーホーでの生活を抜け出します。その後、引っ越しと不相応に贅沢な暮しをしていたマルクス家の生活を支援しました。

30代からエンゲルスは過労から深刻な体調不良に悩まされていました。27歳で膿瘍を患った他、膿瘍の回復も待たず続いて腺熱で倒れてもいます。

43歳の時、内縁の妻メアリ・バーンズが41歳の若さで急逝。その後、メアリの妹のリディア・バーンズを内縁の妻に据えています。

44歳の時、エルメン・エンゲルス商会の経営権を完全に弟たちに売却する協定を結んでいます。49歳で退職。悠々自適な金利生活者になりました。

50歳の時、ロンドンのプリムローズ・ヒルに家を買います。

エンゲルスの邸宅は地下を含め五階建ての住宅で、地下にキッチンと浴室、一階に広々したリビングダイニングがあり、二階にはエンゲルスが一日の大半を過ごしていた応接室と書斎があり、三階と四階はリジーとエンゲルスの寝室、女中の部屋、リジーの姪のパンプスの部屋、来客用の部屋がありました。

エンゲルスは資産を株式購入に充てて運用し、金利生活を営む富裕な株主となっていました。

エンゲルスは日々を規則正しく過ごし、午前中は研究時間と書簡の作成、午後からは家から10分ほどの家に住むマルクスを毎日訪ねていました

エンゲルスは無神論者であり、結婚をブルジョワの偽善的慣行と見ていましたが、1878年、リジーが死に瀕する状態となった時、エンゲルスは近所の聖マークス教会の牧師を呼んできて、英国国教会の儀式に則り、リジーと正式な夫婦として承認を受けたのでした。 彼女はロンドン北西部のセント・メアリー墓地に埋葬されています。

1883年にマルクスが世を去ると、マルクスの膨大な遺稿はすべてエンゲルスに預けられました。エンゲルスはマルクスの遺稿を整理して、1885年7月に「資本論」第2巻、さらに1894年11月に第3巻を出版します。

1895年の春喉頭がんになり、エンゲルスはイーストボーンの海辺の保養地での療養生活をします。

1895年8月5日ロンドンで死去。葬儀は1895年8月10日にウエストミンスター駅の待合室で、ごく近い者でのみ執り行われた。花輪と生花に飾り付けられた特別列車が、エンゲルスの棺を乗せてウェストミンスター駅を発車。棺はワーキングの火葬場で火葬に付され、その遺灰は8月27日にイーストボーンの沖合いに散骨されました。

2018年9月8日土曜日

エンゲルスの家の近くの日本レストラン

 アイスほうじ茶

 しょうが焼き定食(10ポンド)