2017年3月23日木曜日

紅茶の歴史 インドでの茶栽培(アッサムとダージリン)

イギリス東インド会社は中国の広東港での貿易権を獲得し、大量の茶を入手することができるようになり、茶の輸入量は爆発的に増加します。伸び続けていく茶の消費量を考えると中国からの輸入だけに頼るのではなく、継続的にお茶を確保するためには英国主導で茶栽培を成功させなくてはならないという意見が出始めます。

1787年、植物の調査研究のためにカルカッタに植物園を建設。英国から多くの植物学者たちが中国に入り、中国から持ち出しを禁じられえている植物の苗木や種の密輸を始めます。植物はインドの植物園に持ち込まれましたが、温帯の中国の茶の木が熱帯のインドで育てるのは失敗しました。


 アッサム種について
1823年、東インド会社の社員で植物研究家のロバート・ブルースはアッサムに遠征、丘陵地帯でお茶の木を発見します。弟のチャールズは時勢茶の種と苗木を持って帰り、中国式製茶方法を進め、1838年にはアッサム種は正式に茶と認められました。アッサムでの茶栽培は1850年ごろから軌道に乗り始めます。そして熱帯地域でも育つ利点から東南アジアを中心にさまざまな国に植樹され、栽培面積で中国主を上回るようになります。

ダージリン種について
1842年園芸氏ロバート・フォーチュンは王立園芸協会からプラントハンターとして中国に赴任します。1848年には東インド会社からの依頼で中国に入り、茶の木を手に入れます。中国と気候の似ているインドのダージリン地方に茶の種を持ち込み、製茶指導を行いました、フォーチュンが植えた木は数年後無事成長してダージリン・ティーとして出荷されます。

中国とのアヘン戦争をきっかけに、イギリスの紅茶はかつての中国産より、インド・セイロンの茶園で栽培されたものへと移り変わって行きます。

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