2008年3月3日月曜日

ナショナル・ギャラリーのイタリア絵画 (13~15世紀)

私は中世ヨーロッパの宗教画が苦手だったんですけど、今年の春フィレンツェに行く予定なので、イタリア絵画を中心に勉強しています。調べていくうちに少しずつ面白くなってきました。

ナショナル・ギャラリーで一番古いイタリア絵画は、1260年ごろマルガリート・ダァレッツォによる(聖母マリアの足元にラテン語でMargarito d' Arezzoがこの作品を作ったと書いてあります)「玉座の聖母子、降誕、聖人たちの生涯の場面」です。ビザンチン絵画の影響を大きく受けている作品です。

ルネッサンス以前のイタリア最大の画家のジオットの作品。この絵は1306~12年頃描かれた、横長の祭壇画で、キリストの生涯を描いた最後の「聖霊降臨」の場面です。

14世紀イタリアを代表する画家のひとりであるドウッチオの工房で作成され、1311年にシエナ大聖堂の主祭壇へ納められた祭壇画の一部分です。主場面の下に聖母マリアの生涯が描かれており、「受胎告知」は一番最初の場面です。

1370年ごろフィレンツェのサン・ピエル・マッジョーレ教会の主聖壇のために注文された祭壇画で、3人の親方とその助手たちによって作成されました。主題の「聖母の戴冠」は聖母が昇天後天国でキリストから戴冠される場面を描いたもので、たくさんの聖人を描く口実にもなり、当時フィレンツェでとても人気がありました。

モナコ(修道僧の意味)は、若いときにフィレンツェのカマルドリ会のサンタ・マリア・デリ・アンジェリ修道院で修道士になりました。この絵は1414年ごろ描かれた「聖母の戴冠と礼拝する聖人たち」というカマルドリ会修道院のための祭壇画です。聖母が昇天後に天国でキリストから戴冠される場面に、有名聖人たちと一緒にカマルドリ会の聖ロムアルドゥスや聖ベネディクトゥスが描かれています。

ファブリアーノはヴェネツィア共和国、フィレンツェの有力者、シエナの公証人たち、ローマ教皇など、名だたるパトロンたちに雇われ各地を渡り歩きました。この「クアラテージの聖母」は1425年ごろフィレンツェのサン・ニッコロ・オルトラーノ教会の主祭壇のために描かれました。この聖母子の左側にはマグダラのマリアとバーリのニコラウス、右側には洗礼者ヨハネとゲオルギウスの4聖人が別々のパネルに描かれ並んでいました(現在はウフィツィ美術館に所蔵されています)。

これはピサのサンタ・マリア・デル・カルミネ教会の中にある公証人の礼拝堂のために1426年に注文された祭壇画の一部です。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなど多くの画家が彼の作品から学んでいます。

1450年ごろのピサネロの「聖エウスタキウスの見た幻影」という作品です。聖エウスタキウスは狩猟中に牡鹿の角の間に磔のキリストの幻影を見て、キリスト教に改宗したという伝説に基づき描かれました。見本帳を元にしたように、動物は横向きで規定されたポーズをしています。

フラ・フィリッポ・リッピはメディチ家お抱えの画家でした。「受胎告知」はフィレンツェのメディチ宮殿にあったベッドかドアの上に据えるパネルとして、1448~50年ごろ描かれたと考えられています。天使ガブリエルが持っているユリの花は聖母の純潔をあらわし、中央上から神の手が聖霊の鳩を送り出しています。

1450年ごろメディチ宮殿を飾るためにウッチェロによって描かれた絵です。合戦や馬上槍試合や狩の場面は王侯貴族の宮廷で好まれた主題でした。この絵のテーマは1432年のサン・ロマーノの戦いで、フィレンツェ軍がシエナに勝利したときのことが描かれています。赤い帽子を被っているのはニッコロ・ダ・トレンティーノで、コジモ・デ・メディチの友人でした。馬具や甲冑には本物の金銀を使用。ウッチェロの架空の騎士道物語の世界と結び付けています。遠近法の効果を出すために、折れた槍や死んだ兵士が消失点に向かって規則的に並べられています。

1450年代にピエロ・デラ・フランチェスカによって、カマルドリ会修道院内の洗礼者ヨハネの礼拝堂の祭壇のために描かれた「キリストの洗礼」です。彼はフェラーラやウルビーノやリミニの宮廷に雇われたり、ローマ教皇に仕事を依頼されたりしました。幾何学と遠近法の熱心な研究者でもありました。ヨルダン川で聖ヨハネから洗礼を受けているキリストが中心に描かれています。

コジモ・トゥーラはフェラーラのエステ家の宮廷画家でした。この絵は1455~63年に描かれた「寓意的人物像」で、さくらんぼの枝を手にしたエウテルペ(音楽のミューズ)が、イルカの金属細工がついた大理石の椅子に座っています。最初の絵は卵テンペラで、女性像は油彩で、明るい色彩は胡桃油で、暗色には亜麻仁油でと使い分けて描いています。

1465年ごろにアレッソ・バルドヴィネッティによって描かれた肖像画ですが、誰なのか分かっていません。北ヨーロッパでは斜め横向きの肖像画が好まれましたが、イタリアでは古代ギリシアやローマのコインの伝統と結び付けたりして、1500年ごろまで横向きの肖像画が人気がありました。

ポライウォーロ(鶏肉屋)兄弟は、2人で作成を作成しました。この作品は1475年にフィレンツェにあるサン・セバスティアーノ礼拝堂のために描かれました。この頃から祭壇画は多翼祭壇画から単独のパネルになっていきます。セバスティアヌスは木の切り株の上に立たされていますが、これはキリストの磔を暗示しています。セバスティアヌスは矢では死なず、信心深い女性たちの看護で健康を取り戻しましたが、結局棍棒で撃ち殺されます。セバスティアヌスをペストの守護聖人として人気がありました。

1475~76年ごろ作成されたアントネロ・ダ・メッシーナによる「書斎の聖ヒエロニムス」。聖ヒエロニムスは学僧であり、聖書の標準ラテン語版を翻訳・編集しました。彼は教皇の顧問を務めていたので、枢機卿の緋色の衣をまとった姿で描かれることがあります。彼はライオンの前足から刺を抜いてやったので、ライオンも描かれています。この絵の前方のヤマウズラは真実を、孔雀は不死を表します。



ボッティチェリは祈祷用の聖母子像を専門とした大きな工房を営んでいましたが、数少ない世俗的な神話画の方が有名です。これはイタリア以外で見られるボッティチェリの唯一の神話画です。1484年頃、フィレンツェのヴェスプッチ家の婚礼のために、ベッドの背板か長持のために描いたものだと言われています。ヴィーナスは恋人のマルスが眠っているのを見ています。悪戯なサテュロスの子供が耳元でホラ貝を吹こうが、スズメバチが近くでうなろうがマルスは目覚めません。情交により、男性は消耗し、女性は生き生きするという結婚のジョークから。

ロレンツォ・コスタはフェラーラに生まれで、45歳ごろマントヴァの宮廷画家になりました。この絵は1490年ごろボローニャ時代に作成された、室内を装飾する連作の一枚だったと思われます。真ん中でリュートを弾きながら歌っている男性がリードして、他の二人も拍子をとりながら重唱に加わっています。フェラーラの宮廷では音楽が特に愛好され、世俗音楽がイタリアの他の土地よりも発展しました。

この「ツバメの聖母」は1490~92年にかけて、マルケ地方のフランシスコ会の教会の祭壇画としてクリヴェリによって作成されました。画枠ごとそっくり残っている祭壇画は貴重です。ツバメは冬の間泥の中で冬眠すると考えられてため、キリストの復活の象徴でした。聖母はリンゴを持つキリストを膝にのせており、両脇には教会の建築模型を持った聖ヒエロニムスと銀色の矢を持った聖セバスセィアヌスが立っています。プレデラには左から車輪を持った聖カタリナ、ヒエロニムスの荒野での修行、キリスト降誕の場面、処刑されるセバスティアヌス、修道院院長の守護聖人である聖ゲオルギウスが描かれています。

この「ニンフの死を悼むサテュロス」は1495年ごろピエロ・ディ・コジモによって描かれ、フィレンツェの邸宅の長椅子の背板または長持ちを飾っていました。主題はオウィディウスの神話のケファロスとプロクリスの物語で、お互いに相手の貞節を疑い、最後にはケファロスが藪の中の物音を聞き獣だと思って槍を投げ妻のプロクリスを殺してしまうという物語。夫婦間の嫉妬を戒める教訓として、結婚祝いに贈られる室内装飾に好まれました。

このペルジーノ描いた「聖母子と天使、大天使ミカエル、大天使ラファエルとトピアス」は、1490年代後半にパヴィアのカルトゥジオ会修道院の祭壇画のために注文されました。この人はラファエロの師匠として有名で、ラファエロの初期の作品は見分けがつかないほど似ています。

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