シティーの政治の中心となっているのがギルドホールです。中世の建物は、1666年の大火と、1940年の空襲で焼失してしまいました。中世風のファサードは1788年に造られたもので、ホールの屋根と天井は第二次世界大戦後ジャイルズ・ギルバート・スコットによって再建されました。
11月の新市長就任パーティーには、首相を含む700人もの人が招待されるのだそうです。
12の主要ギルドの旗が掲げられています。
その他のギルドの紋章は、盾になっています。
ホール入口の上のバルコニーから、シティーの守護神のGogと、
Magogが、見下ろしています。
トラファルガー海戦の英雄のネルソン提督の記念碑や、
ワーテルローの戦いの英雄のウエリントン公の記念碑がありました。
昔はここで裁判も行われていたそうで、
9日間の女王、レディー・ジェーン・グレーもここで死刑判決を受けています。
1766年に首相に選ばれたウイリアム・ピット(父)と、
同じ名前のウイリアム・ピット(子)の記念碑。この人は1783年に、なんと24歳で総理大臣に選ばれています。いくらアメリカの独立戦争の混乱に紛れてとはいえ、ありえない~。しかも、この人がフランスとの間に自由貿易的な通商条約の締結してフランスに安価で良質なイギリス商品が入り込んだから、フランスの国内産業に打撃を与えて革命が起きたらしい・・・。まあ、マリー・アントワネットの浪費くらいじゃ国家予算は傾かないですものね~。
こちらは1762年と1769年の2回ロンドン市長に選ばれたウイリアム・ベックフォードの像。この人は西インド諸島のジャマイカでサトウキビ農園主の家庭に生まれ、教育を受けるため14歳で渡英します。後に政治家になり、ウイリアム・ピット(父)を利用して家業である西インド貿易に有利な政策を取らせたりしました。
この人の息子はもっと面白い人生を送っています。幼時にラテン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、を学び、5歳の時に9歳のモーツアルトからピアノを習い、建築家のサー・ウイリアム・チェンバースから建築を学ぶという、徹底した英才教育を受けて育ちました。16歳でジュネーブに留学し、法学、哲学、物理学、園芸学を修め、加えてアラビア語、スペイン語、ポルトガル語も習得。ジャマイカのサトウキビ農場からは年に10万ポンドの利益が入って来たので、働く必要はありませんでした。しかし、建築など自分の道楽のために大金を注ぎ込んで父の遺産を使い切り、資産を増やすことはしませんでしたから、亡くなった時には8万ポンドしか残っていなかったそうです。娘がハミルトン公爵に嫁ぎ、その直系の子孫にモナコ国王のレーニエ3世がいます。
その日は行事があるらしく、
シティーの紋章付きの椅子がたくさん並べてありました。
9月のオープンハウスの時には、奥にある部屋も見せてもらいました。
奥には、小ホールや、
ダイニング・ルームもありました。
0 件のコメント:
コメントを投稿