3世紀後半から、各地の豪族は大きな墓を作るようになりました。現在古墳とよばれる墓は、はじめは自然の小さな丘を利用していましたが、後には平野に土を盛り上げ、人工の大きな塚を作らせました。
墓から出土した鏡 (250-710)
鏡 (250-710)
アクセサリー(500)
古墳の周りには、赤褐色をした埴輪(人間の形をした素焼きの土器)(西暦500年ごろ、武人、猪、女頭など)が埋められています。埴輪にはいろいろな職業の人間・動物・家・船などいろいろな形が
あり、古墳時代の人々の生活が分かります。
武人(500)
女頭(500)
武人(500年)
4世紀前半には奈良盆地を中心におこった大和朝廷によって、西は九州北部から、東は中部地方におよぶ地域が統一されました。大和朝廷の首長は最大の王として大王(おおきみ)と呼ばれていました。
大和朝廷を中心につくられた前方後円墳の大きさは長さ100メートルを超えるものが多く、仁徳陵は世界最大規模で、総面積約153万平方メートル、長さ480m、幅305m、高さ35m、一日に1000人動員しても、4年かかったと推測されています。古墳文化は大和朝廷の進出とともに地方にも急速に広まり、5世紀には、北は東北地方南部から、南は九州南部までに及びましたが、6世紀から7世紀になると、規模がずっと小さくなり、円墳が多くなります。
大和朝廷を中心につくられた前方後円墳の大きさは長さ100メートルを超えるものが多く、仁徳陵は世界最大規模で、総面積約153万平方メートル、長さ480m、幅305m、高さ35m、一日に1000人動員しても、4年かかったと推測されています。古墳文化は大和朝廷の進出とともに地方にも急速に広まり、5世紀には、北は東北地方南部から、南は九州南部までに及びましたが、6世紀から7世紀になると、規模がずっと小さくなり、円墳が多くなります。
4世紀後半から5世紀初めにかけて、朝鮮半島に進出し、半島南部の任那を勢力下に収めました。
5世紀になると帰化人も多くなり、機織、金属工芸、土木建築など多くの新技術が伝えられ、各種の産業の発展に貢献しました。支配者の間に漢字の使用が始まりましたが、朝廷の記録・出納・外交文書の作成に当たったのは帰化人でした。
5世紀になると帰化人も多くなり、機織、金属工芸、土木建築など多くの新技術が伝えられ、各種の産業の発展に貢献しました。支配者の間に漢字の使用が始まりましたが、朝廷の記録・出納・外交文書の作成に当たったのは帰化人でした。
6世紀になると、百済から仏教が伝来されます。医学、易学、暦などもこのころ伝わりました。農耕社会の成立によって、自然神や祖先のための社(天照大神を奉る伊勢神宮、大国主神を奉る出雲大社など)がつくられました。
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