マンボーシャのドレス(1935)
1930年代になると再びロング丈のドレスが流行します。バイアスカットで身体に沿うような女性らしいラインが好まれました。実用性と機能性を持つジャージーやツイードを素材に使った働く女性のためのシンプルなスタイルを提案しました。
ココ・ シャネルのスーツ(1937-38)
ココ・シャネルは1913年ごろから機能的なドレスを作り始めました。1950年代以降シャネル・スーツと呼ばれて、20世紀の女性服の基本服のひとつとなりました。
1883年オーベルニュー地方に誕生しました。本名は、ガブリエル・ボヌール・シャネル。幼少時代に母親が他界し、孤児院や修道院などで育ちます。孤児院を出た後、お針子の仕事に就きました。当時交際していた資産家の将校エチエンヌ・バルサンに後押しされ、1909年、マルゼルブ大通りで帽子のアトリエを開業します。1910年には、パリのカンボン通り21番地に帽子専門店「シャネル・モード」を開店。1915年、フランス南西部ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン。21年、パリのカンボン通りの店を31番地に拡張し、香水「No.5」を発表します。1924年、恋人のウェストミンスター公爵からプレゼントされた宝石類に着想を得たイミテーションパールのアクセサリーを発表します。その後、ビジネスは順調に成長していましたが、、シャネルの下で働く労働者のストライキに遭い、一部店舗を残してビジネスを閉鎖。以降、第二次世界大戦中と戦後のスイス亡命期の約15年間にわたり、フランスのファッション界で沈黙を守りました。1954年、フランスのファッション界にカムバック。1971年、自宅にしていたホテル・リッツにて死去しました。
チャールズ・ジェームスのイブニングドレス(1938)
1906年イギリスに生まれ、1940年にニューヨークに渡りました。第2次世界大戦前後のアメリカ社交界で、オートクチュールの豪華なドレスをデザインし、人気を博しました。ファッションデザイナーとしては正規の教育は受けていませんが、彼の作品は研ぎ澄まされたパターンワークが特徴でした。そのデザインの多くは細いウエストを強調するクラシックなもので、一旦は解放されたはずのコルセットを再び女性の身体に装着する回顧主義でもありました。
チャールズ・ジェームズのイブニング・ドレス(1937)
ジャンヌ・ランバンのイブニングドレス(1936)
ジャンヌ・ランバンは1867年、パリに生まれました。彼女は11人兄弟の長女で、地元のフェリックス婦人用帽子店の見習いとして16才で働き始め、ランバンが有名になるまで修行を積みます。 1895年、イタリア貴族のピエトロ伯爵と結婚しましたが1903年に別れ、1907年にジャーナリストのグザヴィエ・メレと結婚しました。1909年、高級婦人服市場に乗り出し軌道に乗り始めます。娘のために仕立てた服が注目を集め、裕福な家庭から子供のために同じ服を作ってほしいと依頼を受けました。1923年、染色工場を建て、1920年には服飾、毛皮や下着などを扱った店を開きます。1924年、香水開発。
エルザ・スキャパレッリのイブニングコート(1937)
1890年、ローマ在住の裕福な家庭に生まれます。王立図書館長も務めた東洋語学者だった父のために家には書籍や世界中の珍しい物品があふれており、エルザの創造力はそれらによって鍛えられた。1914年、ケルロル伯爵と結婚、夫の仕事の関係でニューヨークに移住しますが、離婚。子供の養育費を稼ぐためファッション関係のバイヤーになり、パリに移住します。そこで友人のために作った洋服がポール・ポワレの目に留まり、彼の支援を得てファッション・デザイナーに転じた。
1930年には自身の名を冠したブティックをオープン。エルザは縫製の経験はなかったが、幼いころから鍛えてきたセンスを生かし、幾何学模様の生地を使う、セーターにだまし絵のテクニックを使った模様を付ける等それまでの服飾業界では考えられなかったアイデアを連発、アメリカからも注文が入るなど次第に頭角を現していく。当時流行していた前衛芸術やシュールレアリズムを服飾に取り入れた派手な衣装と色彩は第一次大戦後に急増したアメリカの富裕層に支持され、ハリウッド映画の服飾デザインも多く手がけます。第2次大戦中は顧客の多かったアメリカに移住。1945年に再びパリに戻りメゾンを再開しました。1973年、パリで死去。
エルザ・スキャパレッリのイブニングドレス(1936)
エルザ・スキャパレッリのイブニング・アンサンブル(1938)
0 件のコメント:
コメントを投稿